揚州周延『味方ヶ原合戦之図』(明治18年・1886年)

徳川家 武田・上杉家

三方ヶ原の戦い(武田vs徳川)で信玄が家康に完勝! 謎多き戦場を歩く

信玄と家康が真正面からぶつかりあった!

三方ヶ原の戦い――。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも取り上げられましたが、戦国好きの間では非常に有名な戦いであり、同時にナゾだらけの合戦でもあります。

今回は戦場とされるエリアを実際に歩きながら、あらためて諸説を検証してみたいと思います。

大きなテーマは2つ。

・信玄の進軍ルート

・家康はなぜ城から出て戦ったか?

であります。

と、はじめに【三方ヶ原(みかたがはら)の表記】につきまして断っておきます。

三方ヶ原は、古くは「箕形原」と称されておりました。

「箕の形」の台地とも、その台地から見える富士山の形が「箕の形」だからとも言われていたのです。

そして当地が三ヶ村(和地村・祝田村・都田村)の入会地(いりあいち・柴刈をする共同所有地)になってから、現在の三方ヶ原という表記になったと伝わります。

あるいは戦いが終わった後、織田家に「もっと多くの援軍が欲しかった」ことを訴えるため、徳川家康が「味方ヶ原」と表記するように指示したとの説も……。

ってのはいかにも後世の作り話感がありますが、いずれにせよ本稿では「三方ヶ原」の表記で進めさせていただきます。

※TOP画像=『味方ヶ原合戦之図』(明治18年:揚州周延作)。中央馬上の将は、徳川軍の殿を務めた内藤信成で、右後方で名槍「蜻蛉切」を持っているのが本多忠勝。左後方には武田家最強赤備えを率いる山県昌景がいる

 

熟成しきった最強武田に若き徳川が立ち向かう

三方ヶ原の戦いとは、一体どんな戦いだったか?

まず一言でマトメておきますと、

【熟成しきった最強武田軍に対し、若き徳川軍が完膚なきまでに叩かれた】

というのが三方ヶ原の戦いです。

※戦いの基本事項を先に【5W1H】でまとめておきました。

◆いつ?

元亀3年12月22日(1573年2月4日)

◆どこで?

三方ヶ原
(静岡県浜松市北区三方原町周辺)

◆誰が?

武田軍
vs
徳川軍

※武田軍30,000人(武田本隊25,000※北条軍2,000を含む+山県隊5,000)
※徳川軍11,000人(徳川軍8,000+織田軍3,000)

◆なにを?

武田信玄が浜松城北部の三方ヶ原を横切る時、徳川家康軍が浜松城から出陣して合戦となった

◆なぜ?

徳川家康が出陣した理由……それには諸説あり(後述)

◆どのように?

夕刻=申の刻(午後4時)に出陣し、2時間の戦いで徳川家康軍は大敗。

俗説では、武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者を出したという(諸説あり、実際は武田軍490人、徳川軍1080人か?)

いかがでしょう?

すでに読者の皆さんがご存知の内容かもしれませんが、さらにここでは戦場のあった“浜松市”の【公式見解】を押さえておきましょう。

以下は

『二〇一五年 徳川家康公顕彰四百年記念事業 浜松部会記念誌』(以下『記念誌』と略記)

に掲載されたものです。

「三方ヶ原合戦 二俣城を攻略した武田信玄は、十二月二十二日早朝には浜松方面へ進軍した(軍勢三万)。

神増(かんぞう)付近で天竜川を渡り、秋葉街道を南進し、欠下付近(東区)で三方原台地へ上ったという。

軍勢の一部は新原付近(浜北区)で三方原台地へ上ったという言い伝えもある(休兵坂伝承)。

大菩薩山で陣を整え、追分から祝田(ほうだ)に至った付近で追撃した徳川勢(軍勢一万一千)との間で合戦となった。

すでに夕暮れ時であった。

石合戦から始まり、初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走した。

家康も命からがら玄黙口から浜松城に逃げ帰った。

追撃した武田勢は犀ヶ崖付近に本陣を構えた。

夜半には徳川勢の夜襲もあり、混乱した武田方には犀ヶ崖に落ちて死傷した者も多かったと伝えられる。」

今回はこのレポートと現地マップに基づき、武田信玄の進軍ルートを歩きながら考察を進めます(※注目すべき地名は赤太字で表記)。

なお、上記で戦いのキッカケとされた「石合戦」とは、両軍が礫(つぶて・手に握れるサイズの石)を投げ合うことです。

実際の戦闘では死傷者も出て、とても子供の遊びと笑えるシロモノではなく、中世ではしばしば戦場で用いられていたと伝わります。

 

信玄の進軍ルートを辿る

少し時間を戻しまして、三方ヶ原の戦い直前。

浜松市の『記念誌』によれば、武田信玄は合代島に本陣を置き、周囲の諸城を攻めておりました。

二俣城を落とすと、次は見付の3里北(磐田市の中心地から12km北)にある磐田市神増の渡河点で天竜川を渡り、浜松平野北部を東から西へと移動。

三方原の麓の欠下から三方原へ上り、大菩薩山の欠下城で昼食を取りながら全軍の到着を待ちました。

そして隊形を整えて三方原追分へ行き、そこから【三方ヶ原の戦い】戦場へと向かったことになります。

磐田市神増の交通標識

三方ヶ原の戦いについて書かれた市井の書籍には、武田軍が「秋葉街道を南進」という内容のものが多々見受けられます。

しかし「秋葉街道」は江戸時代に秋葉信仰が盛んになってからの呼称ですので、当時の呼び方は「二俣街道」の方が相応しいでしょう。

現在は、細い古道である「二俣街道」の西に太い新道が作られ、「飛龍街道」と名付けられています。

以下の「三方原合戦絵図」では、

三方原合戦絵図

秋葉街道の宿場町として栄えた宮口を通る東西の道を「秋葉街道」、南下する道を「二俣街道」として区別しておきましたが、実はどちらも「二俣街道」であり、後の「秋葉街道」であるのです。

そしてこの「欠下坂→欠下城(大菩薩山※1)→三方原追分」という武田信玄の進軍ルートは、「信玄街道」と呼ばれています。

「信玄街道」の石碑と案内板

「三方ヶ原の戦い」は小豆餅付近で繰り広げられました。

そして徳川家康が北から南へ(小豆餅から銭取へ)と逃げると、武田軍は追撃し、浜松城の手前・犀ヶ崖付近に本陣を構えます。

しかし、夜襲もあってか、浜松城攻めを断念。

三方原追分まで戻った武田信玄は姫街道に入って西へ進み、刑部砦を築いて本陣として年を越し、正月に野田城(愛知県新城市)攻めへと向かう――。

これが従来の【三方ヶ原の戦い概略です。

参考までに……以下は、浜松駅と奥山(井伊家庶子家・奥山氏の本拠地)を結ぶ「奥山線」の路線図です。

浜松駅と奥山(井伊家庶子家の奥山氏の本拠地)を結ぶ「奥山線」の路線図(現在は廃線)

現在は廃線となっておりますが、この路線は「半僧坊道」(高町半僧坊と奥山半僧坊を結ぶ街道)とほぼ一致しておりまして。

「元城」駅が浜松城跡で、そこから「銭取」駅→「小豆餅」駅と北上して行くと、「追分」駅の近くに「三方原古戦場」碑と「千人塚」があります。

「千人塚」は「戦人塚」であって、「三方ヶ原の戦い」戦死者の墓と考えられてきました。

が、後の発掘調査により、古墳時代の古墳(円墳)であることが判明しています。

話を元に戻しましょう。

以上、三方ヶ原の戦いの流れについて「何も問題はない」と思われていた通説ですが、にわかに風向きが変わるのです。

研究者の高柳氏が

「戦いの始まりは小豆餅周辺ではなく、祝田坂を上った根洗松(ねあらいのまつ)付近」

だとする新説【祝田坂上説】を発表。

同合戦の再検討が始まったのでした。

三方原合戦絵図

 

いったい戦場はどこなのか? 高柳説に揺れる地元

この高柳説に驚かされたのは、三方原に住む郷土史家の方々でした。

彼らは

「祝田坂は、祝田村の人が三方原に上って柴刈をする道であり、行き止まり。当時は三方原追分と祝田坂を結ぶ“金指街道”は無かった」

と主張しました。

が、逆に

「三方原追分と祝田坂を結ぶ“鳳来寺道(半僧坊道、現・金指街道)”があったのだ」

と切り替えされ、高柳説は学説(通説)となるのです。

根洗松の南に建てられた「三方原古戦塲」碑(三方原墓園(浜松市北区根洗町)駐車場)

祝田坂への旧道。武田信玄本陣の「物見の松」(「根洗松」「祝田の一本松」とも)

祝田坂

日没が近いというのに、なぜ遠回りしたのか(三方原追分から祝田坂に向かったのか)?

私には理解できません。

一説に、武田信玄は、平口から休兵坂を上り、本陣を「都田山※2」に構えて昼食をとり、そこから都田へ抜けようとしたら、道が険しかったので、祝田坂を使ったとも言われております。

「信玄遂ニ浜松ノ城ヲ攻ズシテ、平口村ヲ歴テ、引佐部刑部ニ赴キ、爰ニ越年ス」(『武徳編年集成』)

ともかく三方原に住む郷土史家の方々は「古戦場が小豆餅だと思い込んで、徹底的に調査をしなかった自分たちの責任である。怠慢であった」と恥じて、三方原で徹底調査を行います。

そして、三方ヶ原の台地上を隈なく歩き回って見つけた痕跡の総数は、なんとなんと2つでした(三方ヶ原の戦いの痕跡は浜松城周辺に多く、これまで戦場での唯一の痕跡とされていた「千人塚」は前述の通り古墳と判明)。

2つとは、

「おんころ様」(武田信玄本陣・中川寺)

「精鎮塚(しょうちんづか)」(徳川家康本陣・本乗寺)

です。

武田信玄本陣「おんころ様」(中川寺)

徳川家康本陣「精鎮塚」(本乗寺)

この2つの痕跡は、今は2つの寺に移されていますが、以前は共に姫街道の三方原追分と刑部砦の間にありました。

ここから導き出された主戦場は「東大山一里塚」付近。

つまり武田信玄は、

三方原追分→戦場(東大山)→刑部砦

と姫街道を東から西へと進んだことになります。

今川義元の母であり、氏真の祖母である寿桂尼が初めて発給した文書は、大山寺宛のものです。

この大山寺があった浜松市西区大山町には、東大山と西大山があり、それぞれの山頂に本陣を構えて……という流れであれば絵的にもわかりやすいのですが、実際は、そのような本格的な戦いではなく、2時間足らずの「ヒット&アウェイ」だったようです。

あらためてマトメます。

いったい「三方ヶ原の戦い」の戦場はドコにあったのか?

①小豆餅付近説(旧陸軍参謀本部『日本戦史 三方原役』)

②祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)

③大谷東坂上説(鈴木千代松『三方原の戦いの研究』)

④都田丸山南説(岩井良平『三方原の戦と小幡赤武者隊』)

上記のように①~④の4説あり、当初は「小豆餅付近」が通説でしたが、後に「祝田坂上」へと変わりました。

ところが「武田信玄本陣の物見の松」とされてきた根洗松が枯れ、その年輪を調べたら「三方ヶ原の戦い」の時にはまだ生えていなかったことが分かってから「丸山の南」説も急浮上しており、真相はまだまだ定まっておりません。

この話題はここまでとしておき、次に家康が無謀な戦いへ挑んだ理由を考えてみましょう。

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