大河ドラマ『麒麟がくる』の影響もあり【本能寺の変】と即答される方も多いでしょうか。
-
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は
続きを見る
しかしこの年は、他に戦国史に大きな影響を残したイベントがありました。
天正十年(1582年)3月11日は【天目山の戦い】で武田勝頼が織田家に敗れ、戦国大名としての武田家が滅亡した日です。
-
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
続きを見る
「滅亡」というと、一族郎党が一人残らず全滅してしまった――そんなイメージを持ちがちですが、実際にはそういう例は少なく、特に女性や家臣は生き延びてまた別の人生を送っていることがほとんどです。
武田家の子孫も江戸時代に復興しており、誤解を恐れずに言えば典型的なモデルケースともいえます。
では一体どんな流れで復興を果たしたのか?
武田家滅亡の流れと併せて見ていきましょう。
お好きな項目に飛べる目次
織田・徳川に人材を崩され、衰退の道へ
偉大なるお館様・武田信玄が元亀4年(1573年)に逝去。
-
史実の武田信玄は戦国最強の大名なのか?戦歴や人物像に迫る生涯53年
続きを見る
それから約2年後。
武田勝頼が当主になり【長篠の戦い(1575年)】で織田信長・徳川家康連合軍にボロ負けすると、徐々に衰退していきます。
-
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり 勝因は鉄砲ではなく天然の要害
続きを見る
衰退の原因はいろいろな見方があります。
が、最も大きな契機になったと多くの方が同意するのが【高天神城の戦い】ではないでしょうか。
家康領の遠江国で孤立した高天神城(静岡県掛川市)の味方を見殺し同然にしてしまったのです。
-
信玄すら攻略を諦めた高天神城が改めて怖い~敵を喰う肉食山城を歩く
続きを見る
なぜそんな真似をしたのか?
というと、領土を広げすぎたとか、信長とは和平交渉中のため動けなかったとか、理由は色々とありますが、人の生死や武家の存続意義に関わる話もであり、そんな言い訳は一切通用しません。
この見殺し事件は家中を大いに揺るがしました。
織田徳川の調略で次々になびいていく武田勢
そもそも甲斐は長いこと戦乱状態にあり、勝頼の祖父・武田信虎の時代に、相当苦心してまとめたばかりです。
-
武田信虎はなぜ息子の信玄に追放された?強国の土台を築いた生涯81年
続きを見る
そんな状況ですから、日頃から不満を持っていた家臣や親族も多く、これを見た織田信長と徳川家康が「待ってました」とばかりに彼らへ「ウチに来れば優遇するよ」と働きかけたため、武田の人材はどんどん減っていきました。
勝頼は人材不足を防備で補おうとして新たに城を築きました。
が、もちろん城はタダでは建ちません。
お金も物も人の負担もかかり、それをまた部下に強いたせいで、勝頼は余計に人心を失ってしまいます。
あがけばあがくほど事態が悪化していく――歴史のみならず誰の人生においてもよくある話ですよね。
その状況で、織田信長はついに本格的な武田討伐の軍を起こしました。
-
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ
続きを見る
それが天正十年(1582年)のこと。
正親町天皇からもお墨付きをもらい、名実共に有利なのは圧倒的に織田家です。
-
戦国時代を生き抜いた正親町天皇~信長や光秀とどんな関係だった?
続きを見る
かねてからの同盟相手・徳川家ももちろん一緒になって攻めてきました。
木曽に続き重鎮・穴山までもが寝返った!
さらにこのタイミングで、武田勝頼にとっては義弟(妹の夫)である木曽義昌が織田に寝返ります。
-
武田を裏切った信濃の戦国武将・木曽義昌はもう一人の表裏比興の者か
続きを見る
織田方の美濃・飛騨との国境線である西信濃の木曽地方が裏切ったのですから、もちろん勝頼はブチ切れ。
義昌から預かっていた人質を殺し、さらに義昌を攻めようとしますが、あいにく2月の豪雪で進軍できません。
冷静に考えれば裏切り者の始末よりも織田・徳川への備えを優先すべきなんですよね。
あるいは後の交渉材料として人質をキープしておくべきだった。
さらに1582年には【浅間山の噴火】まで起こり、「これ神様も”勝頼オワコン”って言ってるんじゃね?」(超訳)と見られてしまってしまい、さらに家中の統制が取れなくなっていきます。

持明院所蔵の武田勝頼・夫人・信勝/Wikipediaより引用
そんな状態で強敵から攻められたら結果は火を見るより明らかでしょう。
各方面で連携を取りながら進撃してくる織田・徳川軍に対し、武田軍は連戦連敗。
駿河を任せていた重鎮・穴山信君(梅雪)も事前に寝返ってしまい、まさに不幸のズンドコ状態に陥りました。
ゲームだったらフラグが乱立どころか、どう見てもルート確定済みです。
※続きは【次のページへ】をclick!