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【武田家の子孫】
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勝頼に冷遇されながら最後まで戦った諏訪頼豊
そんな感じで傍から見れば自ら滅亡に向かって爆走していったも同然な武田家も、やはり武士としての意地があるので、勝頼と最後まで残った家臣は戦い続けました。
その一人に、諏訪頼豊(よりとよ)という人がいます。
勝頼の母方の親戚ですが、日頃から勝頼に冷遇されていました。
そのため彼は自分の家臣に「この隙に諏訪家を再興しましょうよ!」と言われます。
諏訪頼豊は、それでも勝頼と共に最後まで戦います。
戦隊物とかアニメの主人公だったらここで良いフラグが立つところですけれど、残念ながら歴史の主役は勝頼ではなかったので焼け石に水も同然でした。残念でなりません。
ちなみに頼豊をはじめとした勝頼の近縁に当たる人々とこの時点まで残っていた重臣達は、勝頼の自害よりも前に織田軍に捕まって処刑されています。
1417年の武田信満滅亡に続き、またも天目山で…
追い詰められた勝頼は、最後の最後まで寡兵ながらに頑強に抵抗します。
しかし、その行軍はもはや生き延びるためではなく、ふさわしい死に場所を求めるものになっていました。
辱められるよりは……と考えたのでしょう。
妻子や侍女を含めた500人ほどの一行は、かつて一度武田家が滅びた山・天目山(厳密には天目山という山はなくその地区にあるお寺棲雲寺の山号で、木賊山=とくさやまが正式名称)へ向かいます。
一度目の滅亡は、1417年の武田信満。
普通そんな縁起の悪いところへは近寄らないでしょうが、本当に最期だと思ったからこそ、先祖と同じ死に場所を選んだのでしょうか。
しかし、天目山では地元の人たちが入山を拒否。勝頼を支援したとあとで織田軍にバレると自分たちも大変なことになるから、見限られたのです。
そして3月11日。
勝頼は天目山(木賊山)麓の田野というところで、織田軍の滝川一益隊に玉砕覚悟の最後の戦いを挑みます。
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結果、北条氏から来た妻は自害、武田氏をついだ息子の武田信勝は壮絶な戦死。
勝頼は自害したとも乱戦で戦死したとも言われており、はっきりしていません。
ともかく意図した通り、先祖とだいたい同じ場所で二度目の滅亡を果たしたのでした。

勝頼と夫人のお墓/photo by Sakaori Wikipediaより引用
次は生き残った人々の話に移りましょう。
大久保家の家臣となった武田旧臣・大久保長安
上記のような経緯のため、武田家の関係者で生き残ったのは、最期まで勝頼と行動を共にした人ではありません。
そういう人は勝頼を逃がすために討死したか捕まって処刑されてしまいましたからね。
具体的にいえば、女性であれば結婚で、家臣なら勝頼を見限って他の家にいた人たちです。
そのため「武田旧臣」と呼ばれる人は有名無名含めて案外多いのですが、中でも後々強烈なエピソードを残したのが大久保長安です。
長安は、猿楽衆の家に生まれ、武田家に仕え、のちに武田の重臣である土屋昌次(直村)から土屋姓を授けられました。
相当に優秀だったのでしょう。
武田家が滅びた後、家康に仕え、家康の重臣の大久保忠隣の家臣になり、今度は「大久保」姓を与えられました。
本能寺の変の後、徳川領になった甲斐の道路や河川を整え、金山の発掘なども手がけて才能を認められていきます。
家康直轄領の管理を任されたり、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠隊の補給線を担当したり、まさに命綱といっていい役目を歴任しました。
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が、晩年というか死後に、全てをひっくり返すデカいポカをやらかします。
遺品から武田家の紋が描かれた幕や道具類が発見され、長安は武田の遺臣を庇護して大名の座を狙っていた――という疑惑が浮上したのです。
あわせて長年金山を任されていたことを悪用して、幕府に収める分をちょろまかしてたにちがいないという疑惑も出てきます。
ついでに「ワシが死んだら、金の棺に入れて葬ってくれ」というマズイ遺言をしていたことも(フェイクニュースかもしれませんが)伝わってしまいました。
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