武田家の子孫

絵・富永商太

武田・上杉家

戦国武田家の子孫たちは滅亡後に何処へ 江戸時代に復興した者もいた?

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七人の息子も全員斬首刑

実際は調べてみたら私腹を肥やすなんて証拠も見つからず、武田の思い出の品で昔を懐かしんでいただけ。大名の座を狙っていたというのもほとんど言いがかりに近いものでした。

それでもともかく家康が激怒したのだから仕方ありません。

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「皆知ってて隠してたんだろ! 息子どもも同罪!!」

ということで長安の七人の息子は全員斬首刑に処されてしまいます。既に埋葬されていた長安の遺体を掘り返して磔にするという徹底ぶりでした。

更には縁戚関係にあった大名たちも改易や流罪などの処分がされているのですから凄まじいですね。

長安は家康六男・松平忠輝の家老も兼任しており、忠輝の正室が伊達政宗の娘だったことから「政宗に金を流して謀反を企んでいたのでは?」ともいわれていますが、そこはハッキリしません。

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この大久保長安事件の背後には、大久保忠隣 vs 本多正信・正純の勢力争いがあったとも指摘されています。

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とばっちりで信玄の孫が伊豆大島へ流される

大久保長安事件が起き、武田一派の謀反!とまで大騒ぎされてしまったので、武田の幕を長安に渡したのは誰だ?と犯人探しが始まります。

その人物とは、なんと生き残っていた武田信玄の孫・武田信道でした。

信玄次男の息子ですから信玄にとっては孫。

9歳で父親をなくし、甲府の一向宗のお寺でお坊さんとして育てられていました。

ずっとお坊さんだったので武田家滅亡後も生き残っていたのですが、偉くなった長安と仲良くなり、「武田のグッズ貸して」と言われて、軽い気持ちで貸したのが運の尽きでした。

お寺は破却。

武田信道は息子の信正とともに元和元年(1615年)伊豆大島へ島流しとなります。

ようやく疑惑が晴れたのが50年以上たった寛文十三年(1673年)のことです。

信道はすでに死んでおり、信正は、付き従った旧家臣9人と共に江戸へと帰還。江戸では、内藤忠興(当時磐城35,000石の大名)の屋敷に迎えられます。

 

70歳にして信玄の血がつながった!

内藤忠興は、関ヶ原の戦い前哨戦である伏見城で祖父が討死したことで徳川内でも家名をあげており、大坂の陣でも活躍したので大名になっていました。

武田旧家臣のなかでも出世頭である内藤忠興は、元の主君筋の武田信正を大歓迎。

内藤忠興の木像/wikipediaより引用

なんと17歳の自分の娘を70歳の信正と結婚させるのです。

しかも、70歳の信正さん、子供をつくります。

武田(織部)信興です。

武田旧家臣ネットワークはこれにとどまりません。

犬将軍・徳川綱吉に抜擢された柳沢吉保という人物がいます。吉保の祖父も武田家の庶流でした。

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吉保は、信興こそ武田家の総領であるとして、自分の屋敷に招き、元禄十三年(1700年)、綱吉に奏上して、信興を旗本に取り立て、甲斐八代郡に500石の新領地を与えることに成功するのです。

そして、吉良上野介など名家と同様の「高家」扱いにしました。

武田家はとうとう復興したのです。

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