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【武田家の子孫】
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信玄の娘・松姫を慕い、八王子に住んだ家臣もいた
まあそんなインパクトの強い子孫ばかりだったわけではなく、ほとんどの人は真面目に余生を送ったようです。
旗本など武士の身分で江戸時代を生き残った家もあり、現代に血が続いているケースもあります。
その中には、織田信忠(信長の嫡男)の正室になる予定(信玄が三方ヶ原へ侵攻して破断)だった信玄の娘・松姫を心の支えとして、現在の東京都八王子市付近に住んだ人もいました。
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松姫は信忠が本能寺の変で亡くなった後、出家して「信松尼」と名乗っていました。
天正十八年(1590年)頃から八王子付近に住み、近所の子供に読み書きを教えながら細々と暮らしていたそうです。大名家の姫様にしては順応性が高い人ですね。
異母姉の見性院が家康に保護されていた縁で消息がわかったらしく、姉妹二人で徳川秀忠から庶子・保科正之の教育をしているので、間接的に幕政に関わったともいえます。
仇敵・上杉に嫁いだ菊姫は景勝と仲睦まじくやっていた?
また、他家に嫁いでいた武田家の姫としては、菊姫という人がいます。
上杉景勝の正室で、松姫とは両親共に同じ姉妹でした。
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彼女は長篠の戦いで武田家の斜陽が明らかになった頃、武田・上杉の同盟のため嫁いでおり、武田滅亡後もそのまま正室として扱われています。
子供がないことからか、夫婦仲については諸説ありますが……いわく「景勝は男のほうが好きだったから冷遇していた」とか、「菊姫が亡くなる前、景勝は寺社への病気平癒を祈願させたり、名医を探し回った」などなど、今のところ評価は定まっていません。
個人的には「実家=後ろ盾がない女性を留め置いたのは、景勝の義心と好意によるものではないか」という気がするので、良くも悪くも大名家の夫婦らしい感じだったんじゃないかなと思います。
菊姫は豊臣秀吉が天下人になってからはずっと京都で暮らしており、同じ境遇にある大名の妻達や公家とのお付き合いをそつなくこなしていました。
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また、景勝の長庶子・定勝はじめ家中からの評判も良かったそうなので、肝心の旦那とだけ仲が悪いというのもありえなさそうですし。
家と共に滅びた当主、生き残って血筋や信念を伝えた家臣や女性達、良いところも悪いところも、大いに学ぶところがありますね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『武田氏滅亡 (角川選書)』平山優(→amazon)
歴史読本「特集 徳川幕府誕生」(2011年3月号)
武田勝頼/Wikipedia