武田信虎

武田信虎/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田信虎(信玄の父)は暴君に非ず! 武田家飛躍の土台を築いた悲哀の生涯

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永正12年(1515年)には大井信達が反乱。

大井氏との戦いは三年にも及び、この間、今川氏まで甲斐へ攻め込んでくるという非常に危険な状態にもさらされました。

戦いが落ち着くと、信虎は大井信達の娘を正室として娶ります。

彼女こそ、信玄の母である大井夫人です。

大井の方/wikipediaより引用

 

革新的だった甲府への本拠地移転

政略結婚により妻を娶り、内乱もいったん落ち着き、未来を見つめる余裕もできたのでしょう。

信虎に【甲斐統一】という大目標が見えてきました。

そうなれば、本拠地を築くことこそ急務。

信虎は永正16年(1519年)、新府中(府中=本拠地)を築き上げ、移転することにしました。

鍬入れを行い、躑躅ヶ崎館を建てる――この新たなる都こそ甲斐国の府中、すなわち甲府であると信虎は宣言します。

現在に至るまで山梨県庁のある甲府は、信虎が築き、命名した都市なのです。

躑躅ヶ崎館(現在は武田神社が建っている・写真はその参道と二の鳥居)

信虎の先進性は、この甲府に国衆や家臣を住まわせた点にもあります。

国衆の反乱に手を焼いていた甲斐武田氏ならではの斬新な発想とも言え、豊臣政権や徳川幕府においても本拠地に妻子を住まわせる政策が採用されました。

人質生活を強いられた子供たちにもメリットはあります。武田家のエリートとして教育が施されるのです。

わかりやすい例でいうと真田昌幸もそうで、名だたる知将もこうした制度の下で育成されていたのでした。

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長男・勝千代の誕生

荒れていた甲斐を着実に安定化させていく武田信虎。

その手腕は周辺勢力を刺激し、大井氏の反乱に乗じて甲斐攻めを行った今川家が再び攻め込んできました。

戦いは信虎不利に働き、今川勢の侵入を許し、ついに甲府盆地まで敵がやってくると信虎は正室を躑躅ヶ崎館の背後にあった要害山城へ退避させます。

武田家にとってはかなりのピンチ。そして実はこのとき、彼女は臨月でした。

※躑躅ヶ崎館(現・武田神社)から要害山城へは3.4kmの距離

今川勢を「飯田河原の戦い」で退けた信虎は、重なるような吉報を受け取ります。

大井夫人が、男児を無事出産したのです。

大永元年(1521年)秋に生まれた勝利の申し子のようなこの子は、勝千代という幼名がつけられました。彼こそがのちの武田信玄です。

信虎が今川勢を撃退すると、大井夫人と勝千代は躑躅ヶ崎館に帰還。

それでも牙を剥く国衆は数多おり、信虎は粘り強く彼らを撃ち倒しいくと、天文元年(1522年)、ようやく甲斐統一を成し遂げます。

信虎と信玄の少年時代は、状況が全く異なるわけです。まさしく偉大なる父・信虎あっての信玄でした。

尾張守護代の家臣だった織田信秀が急速に勢力を広げ、それを受け継いだ織田信長とよく似ています(信長は家督継承後に相当苦労しておりますが、それでも斎藤道三の娘を正室にするほどには恵まれてました)。

 

今川と手を結んでさらに躍進 次は信濃へ

幾度か甲斐へ攻め込み、武田氏の宿敵となっていた今川氏。

天文5年(1536年)、その今川氏で大騒動が巻き起こります。

今川氏輝が若くして急死すると、家督継承を巡って【花倉の乱】が勃発したのです。

勝利をおさめたのは栴岳承芳こと後の今川義元。このとき義元は武田に援助を求めており、これを契機に両国の間で同盟が成立するのです。

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この同盟は、武田にとって大きな影響をもたらし、それは嫡男・晴信の正室にも見て取れます。

信玄の正室である三条夫人は京都・三条公頼の娘です。

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この縁談の背後には、今川義元の母・寿桂尼がいたのです。

もともと彼女は公家の出身であり、京都の人脈がありました。

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今川氏と同盟を結ぶことによりさらに足場を固めた信虎は、新たに目標を定めます。

信濃攻略です。

まずは南信濃の諏訪氏と戦い、手を結ぶと、小県へ侵攻を始めるのですが、ここには滋野一族がおりました。

彼らと激突したのが天文10年(1541年)の【海野平の戦い】。

滋野一族とは何者か?

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そうです。
あの真田一族です。

 

突然のクーデターで帰還を果たせず

この【海野平の戦い】を制した信虎。

絶好調!
向かうところ敵なし!
と言いたいところですが、思わぬ事態が起こります。

天文10年(1541年)のことです。

小県郡から戻った信虎は、少数の供回りを引き連れ、今川義元を表敬訪問しました。

娘であり信玄の姉でもある定恵院が義元に嫁いでおりますから、優しい父親の一面が垣間見える、そんな旅行でした。

ところが、です。
いざ甲斐へ帰還しようとすると入れない。

重臣たちが晴信(のちの信玄)を擁立し、入国を拒否するという異常事態に陥ったのです。

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