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【武田勝頼】
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父の死を三年秘すべし
元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄死去――。
「その死を三年秘すべし」という遺言はあまりに有名であり、後世においては信玄の偉大さを示す言葉として解釈されてきました。
が、果たしてそれだけでしょうか。
信玄の功績は確かに偉大です。
ただし、晩年の対外戦争においては強引さもありました。義信の死を招いた今川氏との関係も、その現れでしょう。
織田信長、徳川家康、上杉謙信――といった強力な大名と戦う中で、自らが倒れては危険であると認識していたということは、すなわち【武田家の不安定さを危惧していた】とも考えられます。
そして武田勝頼は、父の遺言に従い、その死を偽装し続けました。
書状に残る花押や署名に、その跡が残されています。
北条氏政が家臣を派遣した際には、叔父であり父によく似た武田逍遙軒を会見させたとされています。
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こうした一連の対処法は、果たして正しかったのか。
「三年秘喪」というような処理がされたのは、なにも信玄だけではありません。
例えば三好長慶も二年間秘匿しておりますが、信玄の場合、あっけなく外に発覚してしまうのです。
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同盟者である北条氏政・本願寺顕如からは、追悼ではなく家督相続祝いが送られる一方で、敵対者の間では信玄の死という真相は、死後数ヶ月で知らされておりました。
この秘匿こそ、かえって武田の不安定さを対外的に証明してしまったことは、十分に考えられます。
懸念材料は、それだけではありません。
信玄を支えた宿老の目から見ると、息子世代の勝頼はあまりに若い御屋形様として映りました。
28という相続年齢は、決して若すぎるとは言えません。それでも彼らからすれば、そう見えてしまう。
さらには勝頼世代の家臣たちも、信玄世代から見れば、ひよっこ同然であり、両世代間には互いへの不信感があった形跡がみられます。
それだけではありません。
家督を継いだ勝頼には、課題が山積みでした。
・内政の不安
・外交や合戦により作られた敵の包囲網
・家臣間の世代格差と不和
家督相続のスタート段階で、これだけの不安を抱えさせられているのです。
これを好機とみなしたのが、織田・徳川でした。
彼らにとってはすでに状況は整っておりました。
・足利義昭の降伏
・朝倉義景の滅亡
・浅井長政の滅亡
・三好義継の滅亡
・松永久秀、織田に帰参
「元亀騒乱」と呼ばれていた情勢は、劇的に織田信長の勝利に染められていくのです。
徳川家康は、信玄によって圧迫されていた三河を取り戻すべく、反攻に出ました。
駿府、井伊谷を攻めたのです。もはや三河をつなぎとめることができず、徳川につく家臣も出てきました。
飛騨・美濃も、武田家の支配下から離れます。
勝頼にとって、あまりに多難な出発でした。
二年目の進展
天正2年(1574年)、この年は追放した我が子・信玄の死を受けて、武田信虎が帰国しています。
そんな祖父の動向に、勝頼は神経を尖らせていたようです。
再び権勢を握らないかと不安になるほど、己の基盤が脆弱だと感じていたのでしょう。
このころ、信玄の宿敵であった上杉謙信は、勝頼をこう酷評しています。
「勝頼の武略は、武田の名に劣るものである」
しかし、そんな侮辱を吹き飛ばすかのように、勝頼は東美濃を攻めます。
武田勢は同地方への攻勢を強めており、その中で選択肢を迫られた一人に信長の叔母・おつやの方もいます。
彼女は甥を離れ、武田につくこととなったのです。この女城主のことを、頭の隅に入れておいていただければと思います。
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勝頼には、東の援軍として北条勢、西には亡命中の足利義昭や六角義賢がおりました。
彼らと手を組めば、織田にも対抗はできるのです。
かくして武田勢、5月には高天神城を包囲し、降伏に追い込みます。
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勝頼を「小僧」とか「父に劣る」などとみなしていた周辺大名が、顔色を変えるほどの快進撃。
このあたりから遠江支配、内政基盤の拡充に取り組んでいくのです。
偉大なる父の三回忌に向け、勝頼は邁進していたことでしょう。
いよいよ喪を秘すべき三年が終わり、そして、運命の天正3年(1575年)を迎えるのでした。
膠着する武田・徳川・織田
勝頼の前に、課題は山積みです。
同盟者相手に「自分が頼りになるところを見せなければならない」ことを痛感。そのためにも、まずは徳川家康の三河制覇を目指します。
しかしここで、信長が動き始めます。
信長も武田の強さは知っておりますし、織田家には他に多くの敵がおります。そうやすやすと動けるものでもありません。
それでも、腰を上げた。
そう。
天正3年(1575年)における【長篠の戦い】です。
結果的に織田・徳川連合軍が大勝利をおさめるこの一戦。
あまりに劇的な勝利だったため【そこには何か特別な秘密があったはずだ】と、長いこと考えられてきました。
例えば「信長の鉄砲三段撃ち」なんかはその一つ。現代では否定されているこのような話がまかり通ったのはなぜなのか。
次ページにて冷静に考えてみたいと思います。
伝説から離れてあの戦いを考えてみる
こうした派手な伝説は、史実だったのか?
いや、どうも、そうではないと近年論じらるようになりました。
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長篠の戦い当時の武田軍ならびに織田軍に注目してみますと……。
・武田家では騎馬兵を重視し、鉄砲を軽んじていた
その確証は得られません。
鉄砲の配備が記録に残っています。
・武田騎馬軍団
東日本では西日本と比較して、馬に乗った戦術が重視されていた点は重要。
馬防柵は存在しましたし、鉄砲隊を崩すのに騎馬が使われることもありました。
ただし、西洋の騎兵のような、乗馬したまま団体で突撃する戦法であったとは考えにくい。
・織田勢における兵農分離
→確証はありません。
たった一人の革新的天才が、戦争を変えた――そんな伝説は非常に魅力があります。
例えば孫子や、
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ズールー族のシャカもそうでしょう。
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あるいは幕末の日本ではナポレオン戦争の歴史を学び始め、西洋の戦術に衝撃を受けました。
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「フランスのナポレオンに学ぼう!」と讃えられ、しかし、普仏戦争後は「プロイセンに学べ」となったわけです。
そんな中で、日清戦争や日露戦争を経て、日本人は自信を持ち始めたわけですが、そうなると日本の歴史においても、フリードリヒ大王やナポレオン、ウェリントン公のような英雄がいたはずだ!と思い始めます。
むろんそうした過去へのリスペクトは結構なことかと思います。
例えば、最上義光顕彰を見てみますと、
「国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。
であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。
我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである」
なんだか、すごい理屈で褒められています。
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こうした現象の問題は、一度の顕彰で終わらないことです。
「我々の祖先たる戦国大名も、何かすごい戦術や改革をしていたはず!」
そんな後世の願望が強すぎて、西洋寄りの戦術と混同するような傾向が見られるようになるのです。
戦前の軍参謀本部の分析が、その典型例でしょう。
その影響は、現在も払拭されたとは言えません。
「織田信長とエリザベス1世下の英国軍はどちらが強いのか?」というような記事も時折見かけますが、海軍力が強みだったイギリスと、そうではない日本とでは、比較のしようがありません。
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ともあれ、ファンタジックな過大評価は、あくまでゲームや漫画にとどめておかねればなりません。
伊達政宗の「騎馬鉄砲隊」も、そうした一例でしたね。
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この手の背伸びした歴史はさておき、誇張のない「長篠の戦い」を考えてみますと、地盤による差はあるものの、軍隊の編成が大きくとなっていたわけでもありません。
ではなぜ、ここまで大きな勝敗の差がついたのか。
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