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【武田勝頼】
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「長篠の戦い」
結論から申しますと、この戦いの決定打はまだはっきりとしておりません。
しかし、一定の要素は認められている。
・織田徳川連合軍は柵の内側に立てこもり、実際よりも兵を少なく、士気が低いように偽装していた
・若い勝頼は、経験豊富な宿老の懸念を押し切って主戦論に傾いていた。とはいえ、当時30歳という年齢が、そこまで若いかどうか、判断がつきかねる
・徳川勢(酒井忠次ら)が武田勢の背後をつき、退路を絶っていた
こうした要素はあります。
とはいえ、誇張もあるのです。
・戦いは数刻に及んでいて、あっという間に勝利したとは言えない
・徳川勢が乗馬しなかったという記録はあるが、そこまで編成が異なっていたという証拠とも言いかねる
冷静かつ慎重に考えれば考えるほど、決定打はわからなくなります。
だからこそでしょうか。
後世の記録は誇張が増え、ますますわかりにくくなっています。
膨大な戦死者がいたことははっきりしています。
ただ、実数や損耗率は不明。これは戦国時代の合戦ではままあることでした。
いかんせん両軍の規模は莫大です。万単位であることは容易に推定。単に推定ではなく、確定した損害もあります。
以下は、この戦いで敗死した、名だたる家臣や将たちです。
【甲斐】
土屋昌続
武田信実
甘利信康
米倉丹後守
【信濃】
馬場信春
市川昌房
香坂源五郎
望月信永
【上野原・西上野】
内藤昌秀
真田信綱
真田昌輝
安中景繁
和田業繁
【駿河】
山県昌景
原昌胤
土屋貞綱
【足軽大将】
三枝昌貞
横田康景
山本管助(二代目)
戦争の結果とは、死者数だけでは判断できません。
【将・指揮官の死】に注目してみますと、この戦いの被害がいかに甚大だったかご理解できるはず。
例えばナポレオン第一帝制における斜陽は、1809年とされることが多いですが、この年、帝国元帥の一人であり、勇者と名高いジャン・ランヌ元帥が「アスペルン・エスリンクの戦い」において戦死しておりました。
元帥は、軍制における華であり、頂点の象徴が失われるということ。
それは制度崩壊に直結するとみなされます。
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日露戦争でも、日本は辛勝していながら前線に立っていた下士官クラスの損害は膨大なものでした。
これはのちに日本軍にも暗い影を落とすことに繋がっていきます。
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第一次世界大戦におけるイギリス軍では、士官となった貴族子弟が多数犠牲になりました。
結果、貴族制度が大変革を迎えているほどです。
こうしたケースを踏まえて「長篠の戦い」死傷者の内訳を確認してみますと、武田は士官にあたる将の死傷があまりに膨大でした。
【兵士の死以上に、士官や将の死の場合は制度の疲弊や崩壊を招きかねない】
「長篠の合戦」における経過や勝因の決定打は不明です。
はっきりとわかっていることは、これが武田家の柱石をなぎ倒した――もはや引き返せぬ大敗北であったことは確実。
そしてその余波は、同盟相手にも及びました。
織田勢は武田についた岩村城を攻め立てます。
敗戦から回復できていない武田家の援軍は、年少者や還俗させた僧侶によるもので、頼りにならないものでした。
武田についていた岩村城の城主であったおつやの方は敗北し、甥である信長によって処刑されています。
そしてこの一件は、単なる一つの悲劇では済みませんでした。
戦国大名の働きとは、同盟相手の保護にあります。
味方を守る力がなければ仲間内から見限られ、その信頼は簡単には回復できないものです。
勝頼当主の武田家は、信玄の服喪が終わった三年目にして、亀裂が生じておりました。
戦後処理からの立て直しをはかる
前述の通り、将の死は体制の崩壊そのもの。
再度立て直すのが急務であり、勝頼は、後継者を失った多くの家の編成に着手しました。
一例として挙げられるのが、嫡男・信綱と、二男・昌輝を失った真田家でしょう。
信濃の有力国衆の一つである真田家では、三男・昌幸を武藤家から戻し、継がせることで保たれました。
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しかし、そう単純な話でもなかったのです。
確かに真田家は元に戻りましたが、武田家にしてみれば武藤家を失ったということになります。
しかも、将棋の駒を並べるように単純なものではなく、心情的な理解やフォローも大切となってきます。
本来なら昌幸は、甥が成人するまで一時的な代理として統治するはずでした。
それをさしおいて真田家を継がせるということは、勝頼自身が予定のなかった武田家跡継ぎで苦労したように、昌幸にとっても大変なことなのです。
その点を気遣ってか。
真田昌幸は、自身の嫡男・信幸の正室に、真田信綱の娘である姪の清音院殿を迎えています。こうしておけば孫の代で、本来の嫡流・信綱の血を引くことになるわけです。
家伝文書も継承せず、信綱の遺児に相続させました。
後に「表裏比興の者」として徳川や北条をさんざん振り回した昌幸ですら、ここまで苦労しているのです。
当時の武田家中にはそんな例がいくつもありました。
一番、心労をすり減らしたのは、勝頼だったことは間違いないでしょう。
やることはまさに山積み。
・家臣の相続管理
・軍団再編成
・外交関係の立て直し
・信玄の本葬儀
・領内における寺社仏閣の管理、祭礼
・金山枯渇対応、商人の保護
家中を引き締めつつ、経済、政治、外交を回し続けなければならないのですから、かなりムチャな話でもあります。
天正5年(1577年)には、「甲相同盟」のもとで、北条氏康の女(むすめ)・桂林院殿が勝頼正室として嫁いで来ます。
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勝頼の領国経営は、試練にさらされ、厳しいものではありました。
それでもまだ「甲相同盟」は保たれていたのです。
しかし、これまた崩壊へ……。
その契機は、上杉家からもたらされたのでした。
北条と上杉のはざまで
後継者の選定が難しいことは、何も武田家だけではありません。
かつて武田信玄のライバルだった上杉謙信の越後でも、跡継ぎをめぐって家中が真っ二つに分かれました。
いわゆる【御館の乱】と呼ばれる御家騒動です。
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「(女性を放棄し)不犯を貫いた君主」というものは、高潔であっても大迷惑であることは、世界史の例でも示されています。
世界史では、不犯君主の家が滅びてしまうものですが、日本の戦国時代は隣の家にも災厄がふりかかったりします。
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死。
確かにこの3年前、謙信は甥の上杉景勝を後継者として指名おりました。
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ところが、それ以前に北条氏出身の養子・上杉景虎も迎えています。
ここから内乱が勃発するのです。
勝頼は戸惑いました。
謙信と和睦し、「織田包囲網」を形成しながら反転攻勢を狙っていた最中のことであり、まったく予想外の出来ごとであったのです。
もしも謙信が病臥するなりしていたらば、また違ってはいたのでしょう。
北条氏政は別の敵に手一杯であり、実弟・上杉景虎の支援を武田に依頼します。
勝頼も、はじめのうちこそ景虎支援でした。「織田包囲網」を作るのであれば、北条との同盟は欠かせません。
ところが、上杉家の騒動が長引くと、いよいよ織田包囲網が機能しなくなる。
どうすべきか?
上杉と北条のパワーバランスを考えても、難しいものがあります。
景虎が勝利して上杉家と結びついたらば、上杉と北条の同盟は強固なものとなります。
それが武田にとってよいことなのか?
かといって景勝が勝利すれば、武田と北条の同盟破棄は免れません。
勝頼の出した答えは、どちらでもない【中立】でした。
・上野領の分割
・黄金500両贈答
・勝頼の妹である菊姫と景勝の婚儀
この条件で、講和の仲介をするとしたわけです。
勝頼は北条側に動きを悟られないようにしながら、和睦を進めようとします。
北条側にはあくまで景虎支援、それでいながら景勝には和睦と言い張り、ことを進めねばならない。胃が痛くなりそうな話です。
さらにここで、最悪のタイミングで厄介な事態が起こります。
北条側と領地を接している真田昌幸が、沼田城攻撃の動きを見せ始めたのです。
なんせ北条側が景虎支援に乗り出した直後のことです。
厳重抗議をしてきました。
薄氷を踏むような出馬を経て、講和が成立しかけたものの、そう簡単にうまくはいかない。この好機を徳川家がつき、勝頼は対処を迫られます。
景勝と景虎からすれば、こう解釈されてもおかしくないのです。
「武田は和睦交渉を破棄したぞ!」
結果、景勝が勝利し、景虎は自刃へ追い込まれました。
こうした一連の出来事、北条氏政からすればこうなります。
「武田は和睦するといいながら景虎を見捨て、勝手に離脱した。そのうえで上杉と同盟を結ぶとは! しかも真田は我が領土を狙っているではないか」
景勝が勝利すると、武田・上杉の間では同盟=「甲越同盟」が結ばれることとなるのですが、これは想定外のものでした。
北条側は、景虎を見殺しにした勝頼へ強い不信感を抱き、同盟は破棄となります。
当然、パワーバランスも、大きく狂ってしまいます。
内乱で荒廃した上杉家は、謙信時代の力は残されておりません。
これは直江兼続の扱いからも、推察できます。
それまで目立つことのなかった兼続が、シンデレラボーイさながらに引き立てられたのは、才能ゆえだけとは思えません。
景勝体制は、それだけ人員不足であり、育成から始めねばならなかったのです。
景勝&兼続の名コンビというのは、あくまで後世目線であり、当時は頼りない若者二人とみなされていてもおかしくはありません。
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武田が、北条と開戦してまで、上杉と同盟するメリットとは?
想像するだけで暗澹としてくる、難しい展開でした。
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