こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【魚津城の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
降伏してでも生き残ってほしい
景勝は、自身が動けない代わりに能登(現・石川県)などから援軍を向かわせました。
魚津城の面々はよく持ちこたえ、5月初旬にいよいよ景勝自身が援軍に向かいます。
そして東側にある天神山城で機を窺いました。
しかし、ここで再度
【信濃と上野の織田軍が、越後侵攻に向かっている】
という知らせを受け、天正十年(1582年)5月27日、断腸の思いで引き返すことを決めます。
景勝は魚津城へ「降伏して良い」と書き送りました。
また、謙信の代からの付き合いである佐竹義重へは
「日本全土を手に入れようとしている相手に対し、越後一国で立ち向かって討ち死にできるなんて、私は果報者です」(意訳)
という手紙を出しています。
-
鬼義重こと佐竹義重の生涯!外交上手の名将は政宗包囲網に成功するも
続きを見る
つまり、景勝は「自分が討ち死にするのは構わないが、魚津城の家臣たちには生き残ってほしい」と思っていたことになるわけです。
謙信があまりにも偉大すぎて「景勝(笑)」のような扱いをされることもありますが、この誠実さと清々しさが景勝最大の美点だったでしょう。
コンビを組んでいる直江兼続とは少し違いますね。
-
軍神の跡を継いだ上杉景勝の実力は?危機の連続だった生涯69年
続きを見る
-
戦国武将・直江兼続の真価は「義と愛」に非ず~史実に見る60年の生涯
続きを見る
この二通の手紙を知ると、彼が関ヶ原後に120万石から30万石へ大減封となっても「召し放ち(リストラ)」をしなかった・できなかった理由もうなずけます。
魚津城の諸将も、景勝の気持ちはよくわかっていました。
そして、それ故に降伏できませんでした。
陥落! そして本能寺……
開戦からちょうど3ヶ月経った今日この日。
12人(あるいは13人)の上杉軍守将は皆揃って自刃し、織田軍が魚津城を攻め落とします。
この自刃のやり方がまた壮絶なものだったのですが、R18Gになるかもしれないので割愛にご理解を。ご興味のある向きは各自お調べください。
勝利に沸いていた織田軍は、しかしここで最悪の知らせを受け取ることになります。
本能寺の変です。
-
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は
続きを見る
慌てふためき、我先にと魚津城から退却する織田軍。
その後、上杉軍は、魚津城や周辺地域を奪還しました。このときの景勝以下の気持ちはいかばかりか……。
まぁ、清州会議で織田家が落ち着くと、今度は佐々成政によって攻め取られてしまうのですが。
-
信長の側近から戦国大名になった佐々成政~秀吉に潰された生涯53年
続きを見る
童門冬二先生の『小説 直江兼続』(→amazon)の冒頭で、魚津城の戦いをめぐる景勝と兼続のやりとりが出てくるので、物語として楽しみたい方にはおすすめです。
大河ドラマ『天地人』……に触れるのはヤメておきましょう。
にしても、そろそろ景勝主役のドラマや映画が出てきてもいいんじゃないかと思うのです。
こうした場面は景勝という人間の内面が一番表に出ているところです。映像化プリーズ!
★
本能寺の変が起きた後は、他に数多のビッグイベントが連続するため、【魚津城の戦い】は忘れ去られがちです。
しかし、凄まじいエピソードもあり、もっとフィクションでも取り上げて欲しいんですけどね……。
現在、魚津城阯は小学校になっています。
あわせて読みたい関連記事
-
織田軍と上杉軍が激突!手取川の戦いで上杉謙信が柴田勝家に大勝
続きを見る
-
当初は信長と敵対していた柴田勝家~秀吉に敗れるまでの生涯62年
続きを見る
-
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ
続きを見る
-
信長の嫡男・織田信忠(奇妙丸)ってどんな人?最期は光秀に狙われて
続きを見る
-
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
続きを見る
-
史実の武田信玄は最強の戦国大名だった?人物像に迫る生涯53年まとめ
続きを見る
-
鬼義重こと佐竹義重の生涯!外交上手の名将は政宗包囲網に成功するも
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
魚津城の戦い/wikipedia