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【武田信繁】
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信繁の陣へ上杉軍の猛将たちが!
信玄を二度も撃退しておきながら、ついには信濃から越後へ追い出された村上義清。
上杉謙信に仕えると、戦国の頂上決戦、越後の龍と甲斐の虎の激突は不可避と言えました。
両国は、幾度かの対戦を経て永禄4年(1561年)――上杉謙信は1万3千の兵を率い、妻女山に布陣します。海津城に迫るためです。
対する信玄は2万の兵と共に出陣。
両軍の睨み合いが数日に及ぶ最中、武田軍では山本勘助の戦術が採用されます。俗に「啄木鳥の戦法」と呼ばれる戦術であり、以下のような手順となります。
山本勘助と馬場信春が二手に分かれる
↓
別働隊を妻女山に接近させる
↓
夜明けに攻める
↓
慌てて山を降りた上杉勢を、本隊が挟み撃ちにして勝利
啄木鳥が嘴で木を叩くと、虫が中から飛び出すことから名付けられた――と、伝説的に語られますが、膠着する事態を打開したかったことは間違いないでしょう。
しかし、作戦とは何かのきっかけで失敗するものでもあります。
濃霧が立ち込め視界がハッキリしない中、作戦を察知した上杉勢は妻女山を降りてゆきます。
武田信繁はこのとき鶴翼の陣の左側。
まだ布陣が完全に整っていないところへ、突如、上杉家の誇る猛将、柿崎景家と新発田重家が押し寄せてきました!
800の兵を率いて、自ら槍をふるい、奮戦する信繁。
血みどろの戦いの中、本陣に目をやると、上杉勢はそこまで迫りそうな勢いです。
「我に挑むもの、誰ぞある!」
「おぉ、あれぞまことの勇士よ……いざ!」
兄を救うべく、身を捨ててでも的を引きつけようとした信繁。
天晴れな武者ぶりに、敵も感嘆しながら討つべく殺到します。
副将らしく前立てを煌めかせて、槍を振るい続けるも……大軍を前にして永遠に続くわけもなく、やがて力尽き、討死を遂げたのでした。
信玄は弟の遺骸を抱きしめると、号泣しました。
その姿を見て家臣団たちも「惜しむべき将を失った」ともらい泣きが止まらない。
★
結局、両軍互いに大きな損害を受けながら、その後も明確な決着は最後までつきませんでした。
信繁の名は真田を通して現代に轟く
武田の家臣団は、その後も折に触れて武田信繁のことを思い出しました。
信玄と対立した嫡子の義信が死を迎えたとき――もしも典厩様がおられたら、このようなことにはならなかったと嘆息する者もいたとか。
武田信玄という戦国時代屈指の名将は、兄弟で一心同体とも言えたのでしょう。
なまじ兄と事績がかぶるだけに、かえって目立たない信繁。
その不在により、重要性を示したとも言えます。
主君である武田信玄を敬愛していた信濃の国衆である真田昌幸も、武田信繁を慕い、惜しんだ一人でしょう。
昌幸は、次男の諱を「信繁」としました。
真田幸村の名で知られる真田信繁であります。
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兄を支え、家を守って欲しいという切実な願いが、そこにはこめられたのでしょう。
真田昌幸の願いは、確かに叶えられました。
関ヶ原の戦いの折、兄と弟は二手に分かれますが、兄と弟はその後も支えあってそれぞれの道を歩んでゆきます。
兄の信之が真田を大名という実として残し、弟・信繁は勇猛果敢な武士として花のような名を残しました。
武田信繁は、若くして川中島に散ったものの、その芳名は残されたのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他