徳川家

築山殿(瀬名姫)が家康に送った最後の手紙 なぜ彼女は殺されたのか?

首は、平岩親吉が織田信長に見せた後、岡崎に埋められた

築山殿が首を落とされたことに関係する「築山御前遺跡」とは、次の4箇所のことである。

①気落し坂(三ッ山から太刀洗の池に下る坂)
②太刀洗の池(野中重政が槍や刀についた血を洗い流した池)
③御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の墓である胴塚があった場所)
④比丘尼谷(築山御前の墓の面倒を見る比丘尼が住んでいた場所)

なぜか三ッ山は入っていない。
築山殿の首が落とされたのは、三ッ山ではなく太刀洗の池の畔ともされ、「気落し」(気絶)という名前から、この坂の途中で絶命したと想像される。

太刀洗の池で刀(村正ではなく相州貞宗)を洗うと池の水が真っ赤になり、不義密通の罪人であるので首のない胴体を埋めて塚とし、上に目印として石地蔵が置かれたという。
その胴塚の世話をする比丘尼がいたという。

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

築山殿の首は、信康の傅役・平岩親吉が織田信長に見せ、首実検をした後、岡崎に埋めたという。

罪人(謀反人)であるから、墓もなければ、菩提寺もなく、ましてや法名もない。能見原(岡崎市能見町一帯)に埋めて塚とし、目印に榎が植えられ、石地蔵が置かれた。
これが「築山殿の首塚」である。

後に本多広信が、築山殿の菩提寺・梅築山西光院を建て、「西光院殿政岸秀貞大禅定尼」という法名を贈った。
西光院は、能見山松応寺(岡崎市松本町。能見町の南隣)の塔頭となったが、明治に入ると廃寺寸前となり、石地蔵の首は落ち、榎の巨木だけがあったという。

見かねた智厭尼が改修し、この「首切り地蔵菩薩」を本尊として祀ったのが地蔵院(岡崎市福寿町)である。
現在の本尊は阿弥陀如来に変わり、寺域が狭くなって首塚は均され、更に榎も切られて道路となっているが、築山殿のご位牌は保管されている。

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

「地蔵院」と聞くと、浜松市民は、「護法山地蔵院」(浜松市南区高塚町)が頭に浮かぶが、築山殿の菩提寺ではない。築山殿が肌身離さず持っていた石を地蔵尊の胎内に入れ、「腹篭地蔵尊」として位牌堂に安置している。

 

家康の特命を受けた石川数正が鎮魂に奔走す

築山殿と信康は、さぞかし無念の死であったろう。
両者は死後、怨霊となったらしく、岡崎では疫病が流行したり、火事が起こったりした。

そこで家康から「鎮魂せよ。しかし、罪人であるから、墓もダメ、菩提寺もダメ」という特命を受けた石川数正は、築山殿のために築山神明宮(ご祭神:天照大神)、信康ために若宮八幡宮(ご祭神:仁徳天皇)を建てたという。もちろん、ご祭神の天照大神と仁徳天皇は表向きで、実際は築山殿と信康である。

築山神明宮は、祐傳寺(岡崎市両町2丁目)の境内、通称「神明の森」に建てられたが、正保3年(1646)、当時の岡崎城主・水野忠善(三河岡崎藩の初代藩主)が、そこを足軽屋敷にしたので、八柱神社(岡崎市欠町石ケ崎)に合祀された。八柱神社のご祭神は、八王子(天照大神と素戔嗚尊が行った誓約(うけい)で生まれた五男三女神の8柱)であり、その親神(天照大神)を合祀しても差し支えない(後に信康の霊も合祀された)。

祐傳寺と八柱神社の石塔は「供養塔」であるが、「首塚」と呼ばれている。

祐傳寺の首塚

祐傳寺の首塚

八柱神社の首塚

八柱神社の首塚

 

99年後の百回忌にようやく法要が営まれた

一方、首のない胴体は、御前谷に埋められたという。
罪人であるから、墓もなければ、菩提寺もないのは首塚のときと扱いは同じ。塚の上に石地蔵が置かれただけで、比丘尼が花を添えていたという。

しかし延宝6年(1678年)8月、ようやく罪が許されたのだろうか。
「百回忌大法要」が開かれ、胴塚が掘り起こされて骨が取り出され、西来院に埋められると墓が建てられた(一回忌法要は死の直後に執行されるので、百回忌法要は死の99年後)。

このとき赤く染まっていた「太刀洗の池」の水が99年ぶりに清く澄んだことから、「清池院殿」(清池院殿潭月秋天大禅定法尼)という法名が新たに追号されたという。

築山殿の霊廟「月窟」の築山殿の墓

築山殿の霊廟「月窟」(築山殿の墓)

「月窟」の名の由来は、李白の詩「蘇武」の「渇飲月窟水」(渇しては月窟の水を飲み)である。
匈奴に捕えられ、穴倉に飲食物を与えられずに捨て置かれたが、雪を飲料水、旗の飾りの毛を食料として生き長らえたという話だ。

築山に幽閉されていた築山殿の「潭月」(「潭」は「池」の意)のイメージだと言うが、今川や武田の人質であった松平康俊の「泉月」のイメージにも重なる。
現在、松平康俊の墓は月窟廟の横にあるが、本来、月窟廟は松平康俊の霊廟であり、百回忌の時に改装されて、築山殿の霊廟になったのではないだろうか?

「月窟」は、「ミニ東照宮」とも言うべき絢爛豪華な建物だったが、太平洋戦争の空襲で全焼。墓石も倒れて割れてしまい、戦後、某婦人(匿名希望)が全額負担して霊廟が再建され、割れた墓石はコンクリートで固められた。

 

なんと生存説も!? 寿桂尼の墓の世話をしていた?

源義経がチンギス・ハーン(成吉思汗)になったとか、明智光秀が天海和尚になったとか、真田幸村豊臣秀頼と共に薩摩国に逃げたとか。
世の中に「生存説」というものは多々ある。

ご多分に漏れず、築山殿にも信康にも。
身代わりとなって殺されたのは殉死したとされる侍女・河井某で、築山殿は生きており、寿桂尼今川義元の母)の墓の世話をしていた比丘尼が、実は彼女だという。

龍雲寺の寿桂尼の墓(右)と黒木尼の墓(左

龍雲寺の寿桂尼の墓(右)と黒木尼の墓(左

寿桂尼の墓は、彼女の菩提寺の龍雲寺(静岡市葵区沓谷3丁目)にある。

龍雲寺は、武田信玄が駿府侵攻時に全焼。
徳川家康は、駿府に入ると、跡地に比丘尼屋敷を建てた。

比丘尼屋敷には「今川ゆかりの高貴な老尼御前」が住んでいたという。その老尼御前を築山殿だとする説(寿桂尼の横の墓を築山殿の墓とする説)があるが、実際は黒木尼(寿桂尼の姉妹)であろう。

 

可愛げはない手紙 家康は「病んでる。重い」とそっけなく

築山殿は悪女だったのか?

私が思うに、ただ単にプライドが高くて、素直になれない、本音を語れないお姫様だったのではないか?
それがなぜ殺されねばならなかったのか?

残念ながら、理由は今なお不明である。

最後に、築山殿が家康に出した手紙を載せておこう。

我身こそ実の妻にて、御家督三郎ためにも母なれば、あながちに御賞翫あるべき事なリ。そのうへ吾父刑部どのは、御身故に失はれまいらせたり。其娘なれば、かたがた人にこえて、御憐みあらんとかねては思ひ侍るに、思の外引かへてかくすさめられまいらせず。郭公の一声に明安き夏の短夜だに、秋の八千夜とあかしわび、片敷袖のうたた寐に夢見るほどもまどろまねば、床は涙のうみとなり、唐船もよせぬべし。いまこそつらくあたらせ給ふとも、一念悪鬼となり、やがて思ひしらせまいらすべし。

「私こそが実の妻です。家督を継いでいる三郎の母でもあります。もっとご賞玩(しょうがん)くださってもよろしいではないですか。父の関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょうゆう)は、あなたのために命を落としました。その娘である私に情けをかけるどころか、カッコウが鳴くような寂しい場所に追いやりました。床は涙の海となりましたが、唐土(もろこし)の舟も寄らないばかりか、だれ一人として私を気にかけてくれません。執念深いとお思いでしょうが、一念の慈鬼(じき)となり思いを知らせます」(磯田道史『ちょっと家康み』「第12話 夫にあてた手紙」 (「広報はままつ」2015年9月号)より)

プライドをかなぐり捨てて書かれたかのような筆致に心を打たれる反面、父・広忠が今川に助けられた恩、人質待遇とはいえ今川に育てられた恩を忘れ、さらに今川の姫にして正室の自分をも置き去りにして、どんどん今川の敵である織田信長に接近していく夫へのいらだちも感じられる。

この手紙を読んだ家康は、いかに返信したのだろう。
「悲しませてスマン」と、築山殿をすぐに浜松に呼び寄せたのか?

否。
──いとどわづらはしく、おぞましさにおもひ給ひしなるべし。

今風に言うならば、
──病んでる。重い。
である。

家康は、築山殿のヤンデレぶりを「可愛い」ではなく、「いとど」(より一層)「煩わしい」「おぞましい」と感じ、さらに遠ざけたのだった。
いつの世も、一度壊れた男女の仲は、修復が難しいものである。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

【記事末資料】

※1『築山御殿御伝記』
「ゆきゆきて、遠つ淡国の国さかひ、本坂の関、うちこゆる。いつか乗りけり、三ヶ日や、昨日の淵は今日の瀬と、かはるならひに吹きよする、みる目はいかに猪の鼻の渡りに舟をやる水と、身の行末ぞたのみなく、わたしし黒木中絶へて、名のみぞ残る浜名ばし、こもれるうきを引く細江、やがて危きふち郡入野の川のひむがしの岸辺に深き大等が谷、浮び瀬のなきところにぞ、御舟は横に着にける」

 

※2「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)

一、築山殿悪人にて三郎殿と我身の中様々讒し不和になし玉う事
一、我身女子斗産たる事何の用にかせん大将は男子こそ重寶なれば妾を多置て男子を設たまへと築山殿の勧によりて勝頼が家人日向大和守が女を呼で信康の妾とし甲州へ一味する事
一、築山殿甲州の唐人醫師減度と言ものを密夫として剰へ彼を使として勝頼に一味し信康を申勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡し信康には父の所領の上に織田家の知行の國を進せ築山殿をば小山田という侍の妻とすべし約束の起請文を書て築山殿へ返事
一、三郎殿常々物荒く御座し我身召仕みの小侍従と申女を我が目の前にて差殺し其上にて彼の女の口を引さき玉ふ事
一、去頃三郎殿おどりを好て見玉ふ時踊子の装束不宜又踊様あしくとて其まヽ踊子を弓にて射殺し玉ふ事
一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家に出合ひたるに今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて彼法師の首に縄を付け力皮とやかに結付馬馳せつすり殺し玉ふ事
一、勝頼が文の中にも一味したるとなし何としても勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与し可申候存前申上候 以上

 

※3「築山殿謀反の誓書」

三郎信康は我が子なれば、如何にしても説き付け武田方の昧方とせん、徳川・織田の二将は妾に計あり、必らず倒すべし、此のこと成就せば家康の旧領はそのまま信康に賜わりたし、又、妾をば君か被官の然るべき者の妻とし給え、此の事業に肯諾を得ば速やかに誓書を賜わるべし、妾も速に計る所あるべし。

 

※4 武田勝頼が築山殿に出した返信

今度減敬に被仰越神妙に覚へ候。何共して息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、謀を相構え信長と家康を対立し給うに於ては、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領の内、何れなりとも望み任せて一ヶ国、新恩として参らすべく候。次に築山殿は幸い郡内の小山田左兵衛と申す大身の侍、去年妻を失ひ、やもめ住居にて候得ば、彼が妻となし参らすべく候。信康同心の御左右候はば、築山殿をば先立てて甲州御迎え取り参らすべし。
右の段相違するに於ては梵大帝釈四大王惣而日本六十余州大小の神祇別て伊豆箱根御所権現、三島大明神八幡大神宮大満大目在天神の神罪各々可相蒙者也。仍て起請文如件。
天正六年十一月十六日
勝領(血判)

 

 



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