本多正信/wikipediaより引用

徳川家

本多正信は謀臣にあらず?敗者に優しいスーパー平凡武将が家康の天下を作った

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本多正信(1538-1616年)は徳川家康・秀忠に側近として仕えた官僚的武将である。

通称は「弥八郎」で官名が「佐渡守」。
天文七年(1538年)に三河国(愛知県東部)で生まれた。

出生地については、三河の「西城」(西条、西尾市)と「小川村」(安城市小川町)説のほか、駿河の久米(静岡県)との言い伝えもある(次男・政重に始まる加賀本多家の系図)。

父は本多俊正。
母は不明ながら、家康の祖父松平清康の侍女とも言われている。

幕府がまとめた『寛永諸家系図伝』によると、本多の先祖はもともと豊後国(大分県)の本多の出身で、正信の曽祖父が三河に移り住み、松平清康に仕えたとされる。

 

一向一揆では家康と相反

家康よりも4歳年上の正信も松平家に仕えた。
ただ、家康の幼少期の松平家は三河において絶対的な存在ではない。

家康が今川義元に人質となってから、本多氏は実体的に松平家の家臣というよりも、義元に属していたと考えるほうが自然である。

そして1560年(永禄三年)桶狭間の戦い後に自立した家康とは、わずか3年後にたもとを分かっていた。
1563年(永禄六年)の三河一向一揆で、一向宗(浄土真宗)側に立ち、同じく一揆側になった家康家臣らと上野城(愛知県豊田市)に立て籠もったのだ(『三河物語』)。

この一揆、かつては「宗教戦争」とされていたが、実態は松平氏内の内部争いという側面が強かったことが近年の研究で明らかになっている。

一揆の平定後は、弟の本多正重と共に三河を追放されたとされ、その後の浪人生活についての記録はほとんど残っていない。

死後4半世紀が経過した1702年頃、儒学者・新井白石が完成させた『藩翰譜(はんかんふ)』には、浪人時代の正信は都へ行き、松永久秀に会って
「強からず、柔らかならず、又卑しからず、必ずよのつねの人にあらず」
と評されたとの逸話が載る。

「強すぎず、弱すぎず、卑屈でもない。平凡を越えて並の人物ではない」
という意味からして、平凡を極めた男が本多正信という人物となろうか。

ただ、この逸話はおそらく、江戸時代の人たちが正信をそうした人物だと評したことを、架空の「松永久秀」に語らせて流布したというのが実際のところだろう。

『富樫観知物語』には、正信は加賀一向一揆に参加。
本多作内の名で、織田信長の北陸方面軍の柴田勝家軍と戦ったという。

この逸話が本当ならば、後述するように正信の次男・政重はのちに加賀藩(石川県)に入るのだから興味深い縁である。

 

諸国を流浪の末、三河に戻る

諸国を流浪した末に、正信は再び家康に仕える道を選んだ。

ただし、復帰の時期がハッキリしない。

『寛永諸家系図伝』では元亀元年(1570年)姉川の戦いの頃。
『藩翰譜』では天正十年(1582年)の本能寺の変後だとして、12年もひらきがある。

ここは、より古い寛永十八~二十年(1641-1643年)に幕府が公式にまとめた『寛永諸家系図伝』のほうが有力であろうか。

ともかく徳川家への復帰が確実にわかるのは、天正10年に家康が滅亡した武田氏の旧家臣に与えた朱印状からだ。

この頃の家康は、武田領国を一気に吸収したことで、急増した新参者たちの「徳川化」を進めることが重要な課題であった。
ずっと家康を離れずにいた譜代よりも、一度、家康を裏切った「負の経歴」が逆に、敗者の武田旧臣を自然に取り込むにはうってつけの人材だったのではないか。

独断だが、本多忠勝なら上から目線で武田旧臣たちに接し、統合はうまくいかなかったのでは?と想像してしまう。
同じように、当時は外様(三河ではなく遠江)の井伊直政が、武田の赤備えを吸収することで徳川第一の軍団にのし上がったこともある。

井伊直政/photo by 戦国未来

この時期(天正十三年)には、三河一向一揆の際に追放された三河本願寺派の有力7寺院にも三河への復帰が認められていた。

いわば家康の「和解の力」とでも言えるだろう。

これこそが、後の天下人レースを走る原動力となるのだが、背景には羽柴(豊臣)秀吉との小牧長久手の戦いをはじめとする、滅亡ギリギリに迫られた事情があったことも忘れてはならない。

 

裏切りものの汚名を注ぐため徳川幕府の創造に尽力

こうして裏切り者のレッテルを少しずつはがし、実績を積んだ正信。
天正十四年(1586年)に従五位下佐渡守に叙任され、名実ともに家康の側近となった。

小田原攻め後の天正十八年に家康が江戸へ入った後は、相模国の玉縄(神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ「大名」になっている。
関東総奉行として、家康の新しい拠点江戸を整備していくのだ。

が、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、思いもよらぬ苦渋を味わわされてしまう。

前哨戦となる上田合戦(第一次上田城の戦い)で、徳川秀忠の参謀となっていたのだ。

真田昌幸真田信繁真田幸村)が立て籠もる上田城へ大軍で攻め寄せたこの戦い。
真田の策謀により散々な目に遭わされ、関ヶ原の本線に秀忠が遅参したのはあまりに有名だろう。

しかし、この一戦をもって家康の正信への信頼は変わらなかった。
むしろ、正信は「2度目の失敗」にさらに奮起したのではないか。

1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開くと、その2年後には将軍職を秀忠に移譲。
自身は豊臣家との因縁の決着をつけるべく西の駿府城へ移った。

正信は江戸に残り、息子の本多正純と共に幕府運営の一手を担っていた。

 

敗者に優しく、敗者をつくらず、裏方に徹す

正信は、自身のキャリアからなのか、「敗者」に優しかった。

上杉家の重臣・直江兼続から乞われて、正信の次男・政重を養子にやっている。
言わずもがなだが、上杉家は関ヶ原の敗者だ。

徳川家と豊臣家の二大閥の間にいた第三勢力の加賀藩も、豊臣家に見切りをつけて徳川家に近づいてきた。
それを取り持って、直江となっていた政重を本多姓に戻し、加賀藩に仕えさせることに成功している。

こうした裏での駆け引きにかけていたため、正信は「謀臣」などといわれるが、苦杯をなめた人生だけに、敗者をできるだけ作らないことに汗を流したと評価することもできるだろう。

1615年の大坂の陣で、豊臣家は滅亡する。
この戦いで豊臣家はもちろん滅んだが、多くの豊臣方の武将はもともと浪人であった。

もしも、この戦いを前に、幕府が上杉や前田を改易に追い込み、大量の浪人を世に放っていたら、彼らが豊臣家についてより大きな犠牲が生まれた「IFシナリオ」も見えてくる。
ドコかでガス抜きをする存在が必要だったのではなかろうか。

正信は晩年、家康第一の側近となったとされている。

しかし、石高は2万2,000石止まり。
本人が固辞したからともいわれるが、やはり武功面よりも行政面で優れていたから、戦国期においてはさすがの家康も高い石高で報いることはできなかったのだろう。

徳川家康像(駿府城本丸跡)photoby戦国未来

家康は1616年になくなると、それを追うように49日後の6月7日に正信もこの世を去った。
享年79。
京都の本願寺に墓がある。

 

徳川内部の嫉妬からか二代で没落

正信没後、本多氏は長男の本多正純が跡を継いだ。

正純は、父が江戸にいる間も駿府(静岡市)の家康の側近として仕え、家康と父の死後は江戸に移り秀忠に仕えている。

秀忠政権では事実上の筆頭家老。
1619年(元和五年)には一気に15万5,000石に加増され、宇都宮城(栃木県宇都宮市)を与えられた。

ところが、である。
そのわずか3年後に改易となり、秋田県の横手に配流され、1638年(寛永十四年)に亡くなった。

徳川家の本多氏は二代で隆盛し、すぐに没落したのである。
しかし、正信の次男・加賀藩本多政重の家は最後まで加賀藩筆頭家老として、役目を全うした。

余談となるが、正信が残したとされる教訓書が『本佐録(ほんさろく)』である。

主君に仕えることの大切さをとく儒教的な内容と、家臣との関係に「情け」を重視することなど、正信らしき配慮から、当人の著とされてきたが、実際の著者は不明だ。

同書にはこんな一節がある。

「百姓は、財の余らぬやうに、不足になきやうに治る事、道也」

「ほどほどがよい」というスーパー平凡人の正信なら言いそうなことだ。

文・恵美嘉樹

【参考】
国史大辞典

 



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