徳川家康には、男女合わせて17人の子供がいました。
男の子が12人で女の子が5人。女の子の人物像や嫁ぎ先などが不明なことはままありますが、男の子について知られていないとなるとチョット不思議です。
以下のメンバーは割と知られていると思いますが、
家康の子供たち
他の5人は名前すら聞いたことがない――という方も少なくないのでは?
本稿ではその四男に注目。
慶長十二年(1607年)3月5日、家康の四男・松平忠吉が28歳で亡くなりました。
松平姓だと「また何かいわくつきか」と嫌な予感がした方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
この方の場合は、親戚の東条松平家というところに世継ぎがいなかったため、「ならばお前が行ってこい」という理由で養子として出されたからです。実に穏やかというか普通の流れですね。
ここは徳川家(松平宗家)が立て続けに当主を暗殺されて危うかったときもずっと味方でいてくれたので、家康も恩義を感じていたのだとか。
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こんなイケメンに仕えられるなら死んでもいい
さて、忠吉本人はどういう人だったのか? というと、若年のうちに亡くなってしまっているので、あまりエピソードは伝わっていません。
複数の記録によれば
「イケメンだった」
「優しいイケメンだった」
「こんなイケメンに仕えられるなら死んでもいい」
「イケメンが大将ならきっと勝てる!!」(超訳)
という記述があります。
家康の息子の中でもかなり眉目の整った人だったのでしょう。
異母兄弟の秀康や忠輝が顔で苦労したと伝わるのと比べたらエライ違いですね。
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二人ともカワイソス(´・ω・`)
関ヶ原で先陣切って、豊久も討ち取って
母親は西郷の局という人で、兄の徳川秀忠は同母兄弟になりますね。
血筋も悪くなく、顔も良く、さらには武士としての器量もあり、それだけに人望もあったようです。
彼の初陣は関が原の戦いで、見事に島津豊久(義弘の甥っ子)を討ち取っています。つまり伝説の「島津の退き口」と対峙したわけです。
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岳父(妻の父)であった井伊直政など。
家康お墨付きのツワモノたちが脇を固めていたとはいえ、本人の度胸もかなり据わっていたでしょう。
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そもそも関が原で「戦いの口火」を切ったのも、忠吉が先攻したからだったという話もあります。
本来は福島正則が先陣のはずだったところ、逸る忠吉を直政が説得しきれずに出て行ってしまったのだとか。映画やドラマだったら死亡フラグですね。
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実は忠吉の配置されたところは秀忠が入るはずの陣だったという話もあります。
この二人は同母だっただけに兄弟仲が良かったようで「兄上すまん」「遅刻した俺が悪い」ぐらいで済んでいたかもしれませんね。
仲良し大事。戦場でのアレコレは、後々まで恨まれることもありますしね……。

関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡/photo by 立花左近 wikipediaより引用
武蔵国忍城10万石から清洲52万石へと大出世
関ヶ原という大舞台で、見事に初陣を果たした忠吉。
このとき頭に傷を負ってしまいました。本気の島津と戦うとヤベェってことでしょう。
お供をした井伊直政もこのときの鉄砲傷が遠因でその約1年半後に死亡したとも言われます。
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忠吉はそれまでの武蔵国忍城10万石の領地から、関が原での功績で清洲52万石に取り立てられたので、家康もかなり期待していたでしょうね。しかし……。
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