絵・小久ヒロ

徳川家

築山殿/瀬名姫(家康の正室)は重たい女? 最後の手紙と殺された理由

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築山殿(瀬名姫)
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家臣串刺しに続き、今度は瀬名姫の両親が自害に追い込まれる

大事な人質をまんまと家康に取り戻され、今川氏真は怒り心頭に発したのであろう。

完全に歯止めが効かなくなったようで、永禄5年(1562)、関口屋敷において瀬名姫の両親を自害させた。

「娘(瀬名姫)の夫(松平元康)が今川氏を裏切った罪」

あるいは

「娘婿に同調して今川氏を裏切る可能性がある」

というのがその理由だ。

最近の学説では、織田信長を諌めようと自害した平手政秀のように「今川氏真を諌めるための自害だった」という考え方もあるが、ともかく瀬名姫両親の自害は、夫・松平元康と無縁ではない。

そして元康は、今川氏との縁が完全に切れると、永禄6年(1563)、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「元康」から「家康」に改名した。

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

駿府の人質生活から解放され、信康と亀姫は岡崎城へ移った。その一方で瀬名姫は一時的に軟禁生活を余儀なくされる。

それが彼女が「築山殿」と呼ばれる所以にもなっており、岡崎城から離れた「築山」(菅生郷築山)に住み、「築山殿」「築山御前」と称されるようになった(これ以前は「駿河の御前」だった)。

あるいは別の説では、家康の父・松平広忠が、水野氏が今川方から織田方に移ったため妻・於大の方を離縁したように、今川方から織田方に移った家康も瀬名姫を離縁し、息子の信康が彼女を呼び寄せて「築山」に住まわせたので「築山殿」と呼ばれるようになったともいう。

更には好色で有名な朝倉義景の側室になった後、信康に引き取られて築山に住んだから築山殿となった説なども。

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※築山の位置は、岡崎城の籠田総門付近にあり、人々が出入りするサロン(情報交換の場)になっていたとされる。そこで「軟禁状態」だったと目される

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

 

夫と姑にキレた徳姫が父・信長へ「12ヶ条の弾劾文」

元亀元年(1570年)6月、家康は、元服した信康に岡崎城を譲り、自身は浜松城へ移った。

城主になった信康は、母・築山殿を軟禁状態から解き、岡崎城内の東曲輪に入れたという。

これが大いなる悲劇の火種になった。

岡崎城には、松平家代表・於大の方(家康の実母)、今川家代表・築山殿(家康の正室)、織田家代表・徳姫(信康の正室)の3人の女性が揃ってしまったのである。

信康の妻・徳姫は、織田信長と生駒お類の長女であり、永禄10年(1567)5月27日に岡崎城へやってきていた(このとき2人は9歳)。

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ただでさえ難しい嫁姑の関係。築山殿と徳姫との溝は、日に日に深まっていく。

築山殿にとって徳姫は、宿敵・織田信長の娘であり、現代の常識から見ても好きになれるワケがない。

そして天正7年(1579年)8月、夫・信康とも仲が悪くなった徳姫は、ついに父の信長へ「徳姫12ヶ条の弾劾文」を届ける。

その内容は……。

徳姫から送られた弾劾文は、築山殿と信康親子を中傷したもので、古文書はまだ発見されていないが、復元すると次のようになるという。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。

③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。

④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。

武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。

⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。

⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。

⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。

⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。

⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。

※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

言ってみれば「築山殿は好色で派手」「信康は残忍な愚公」という愚痴であるが、信長にとっては到底無視できない箇所があった。

「信康が武田と組んで、信長や家康を殺そうとしている」という点である。

これにブチキレた信長が「信康を殺せ」と家康に命じ、更には助命嘆願のため浜松城へ向かった築山殿も討たせたという。

あくまで家康は、信長の命令で泣く泣く妻子を殺した――これが通説である。

実際、その証拠(「築山殿謀反の誓書」※3と武田勝頼が築山殿に出した返信※4)が、築山殿の秘密の文箱から見つかったとされている。

しかし、である。

いかにもな証拠が揃っている状況が逆に怪しいことから、最近になって、

「妻子を殺そうと思ったのは家康であり、信長が承認した」

そんな説が注目を浴びている。

この説の論者は、妻子殺害のバックボーンを、浜松に連れて行ってもらえなかった岡崎の徳川家臣と、浜松の徳川家臣の分裂を治めるためとも、家康と信康の不和ともする

 

瀬名姫の死 諸説と大きく食い違う浜松での伝承

では築山殿の最期はいかなる状況だったのか? 実は、これがよく分かっていない。

①岡崎城から浜松城に向かう輿の中で、野中重政に槍で刺された

②岡崎城から浜松城に向かう途中、三ッ山で野中重政に首をはねられた

主に2つの説が挙げられ、小説や演劇では①のように描かれることが多い。

輿から引きずり出された築山殿は、大声で泣きわめき、呪いの言葉を吐くも、野中重政に首を切り落とされたという話である。

一方、②の築山殿は、凛として落ち着いているのが特徴だ。

小藪村で船から降りると「三ッ山に歓迎の宴の用意がしてございます」と言われて、「夫が出迎えに来てるかも」と思って輿に乗り、降りるとそこには白い横断幕……。全てを悟った築山殿は自害し、野中重政が介錯した。

片方は見苦しく、片方は実に潔い。一体どちらが本当の彼女なのか。

実は、そもそも浜松の伝承では、まったく異なる話が伝わっている。

「岡崎城から浜松城に向かう途中」で殺害されたのではなく、築山殿は浜松にいたとしているのだ。

背景にあるのは、徳川家康が、遠江侵攻時から築山殿を一緒に連れてきていたとする話で、

「女性を戦場には連れて行かないでしょ?」

と反論されそうだが、徳川家康は、阿茶局や、お梶の方(男装・騎乗)を同行させた実績もある。

実際、今川義元の姪である築山殿を遠江侵攻時に連れて行くのはメリットがある。

①自分は遠江国を領する今川家の姫の夫である

②妻の両親は今川氏真に自害させられた。これは敵討ちである

そう正当性を主張することができたという。

そして、引馬城を守るお田鶴の方を討ち終えると、築山殿は塚を築いて自ら100本余の椿を植えたとされるが、そこで彼女が病気になり、名医として有名な元慶が呼ばれるが、これがよくなかった。

築山殿と元慶が不義密通をしたのである。

怒った家康は、三ッ山での宴会中に、野中重政に殺させた――というのが浜松に伝わる顛末である(『遠江古蹟圖會』「築山御前の墓」)。

 

首は、平岩親吉が織田信長に見せた後、岡崎に埋められた

築山殿が首を落とされたことに関係する「築山御前遺跡」とは、次の4箇所のことである。

①気落し坂(三ッ山から太刀洗の池に下る坂)

②太刀洗の池(野中重政が槍や刀についた血を洗い流した池)

③御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の墓である胴塚があった場所)

④比丘尼谷(築山御前の墓の面倒を見る比丘尼が住んでいた場所)

なぜか三ッ山は入っていない。

築山殿の首が落とされたのは、三ッ山ではなく太刀洗の池の畔ともされ、「気落し」(気絶)という名前から、この坂の途中で絶命したと想像される。

太刀洗の池で刀(村正ではなく相州貞宗)を洗うと池の水が真っ赤になり、不義密通の罪人であるので首のない胴体を埋めて塚とし、上に目印として石地蔵が置かれた。その胴塚の世話をする比丘尼がいたという。

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

太刀洗の池(現在は埋め立てられて駐車場)

築山殿の首は、信康の傅役・平岩親吉が織田信長に見せ、首実検をした後、岡崎に埋められた。

罪人(謀反人)であるから、墓もなければ、菩提寺もなく、ましてや法名もない。能見原(岡崎市能見町一帯)に埋めて塚とし、目印に榎が植えられ、石地蔵が置かれた。

これが「築山殿の首塚」である。

後に本多広信が、築山殿の菩提寺・梅築山西光院を建て、「西光院殿政岸秀貞大禅定尼」という法名を贈った。

西光院は、能見山松応寺(岡崎市松本町。能見町の南隣)の塔頭となったが、明治に入ると廃寺寸前となり、石地蔵の首は落ち、榎の巨木だけがあったという。

見かねた智厭尼が改修し、この「首切り地蔵菩薩」を本尊として祀ったのが地蔵院(岡崎市福寿町)である。

現在の本尊は阿弥陀如来に変わり、寺域が狭くなって首塚は均され、更に榎も切られて道路となっているが、築山殿のご位牌は保管されている。

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

護法山地蔵院の腹篭地蔵尊(中央の厨子の中)

「地蔵院」と聞くと、浜松市民は「護法山地蔵院」(浜松市南区高塚町)が頭に浮かぶが、築山殿の菩提寺ではない。

築山殿が肌身離さず持っていた石を地蔵尊の胎内に入れ、「腹篭地蔵尊」として位牌堂に安置している。
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