徳川秀忠/Wikipediaより引用

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徳川秀忠(家康の三男)関ヶ原の遅刻は冤罪か!? 二代目将軍の実力

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関ヶ原の遅刻~将軍就任への影響は?

でも不思議ではありませんか?

最初から徳川秀忠と決まっているなら、そもそも跡継ぎ問題など話題にはならないはず。

逆に言えば、徳川秀忠を二代目にするには何かと不安があったから、わざわざ『御実紀(ごじっき)』に、「忠隣こそ我が意を得たりと家康が言った」なんてエピソードを盛り込んだのでしょう。

要は必要以上に強調しているんですね。

ではその不安な「何か」とは?

秀忠にとっては不名誉でお馴染みのエピソード【関ヶ原の遅参(遅刻)】です。

順を追って見ていきますと……。

慶長五年(1600年)7月、徳川軍とそれに従う豊臣系武将は会津へ進軍しておりました。

目的は上杉征伐

五大老の一人でもあった上杉景勝が命令を無視して軍備を増強し、かつその腹心・直江兼続が『直江状』という手紙を家康に出して、徳川家に喧嘩を売っていたのです。

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徳川軍としてもこれを捨て置くことはできず、会津へ。

するとそのタイミングで石田三成が上方で挙兵しました(西軍)。

会津へ進軍していた徳川軍(東軍)は、途中で上杉征伐を取り止め、西へと反転。

家康や豊臣系武将らは東海道を進み、徳川軍の主力を率いた徳川秀忠が中山道を選びます。

◆東海道
→家康本隊と豊臣系武将(福島正則や山内一豊など)

◆中山道
→徳川秀忠と徳川軍主力

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大事なのは途中にある上田城

秀忠軍の主力部隊(約3万8千)と、家康の本隊は、近江や美濃で合流する予定だったとされます。

その際、秀忠が通ったルートが、ざっと以下の地図のようなイメージでした。

小山評定の小山(栃木県小山市)を出て京都まで約430kmの大移動。

大事なのは途中にある上田城です。

徳川に反目した真田昌幸真田信繁真田幸村)が籠もる信州の要衝であり、これを大軍で奪い取ろうとしました。

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が、結果は皆さんご承知の通り、真田昌幸の戦術に振り回され、犠牲者を出しただけで退散【第二次上田合戦】。

そこから慌てて関ヶ原を目指したものの、戦いには間に合わず家康にこっぴどく叱られた!というものです。

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要点は二つ。

◆少数の真田を相手に大軍で負けたこと

◆おまけに天下分け目の戦いに遅刻したこと

この二つの不幸が重なり、秀忠は後世にまで凡将扱いされるのですが……結果から言うと、

「秀忠は何も悪くない」

と見るほうが自然な気がします。

というのも、秀忠率いる徳川軍主力は、中山道(特に真田)を押さえることが第一の目的とされていたのです。

それが、東海道を進んだ豊臣系武将らの進軍が思った以上に早く、あっという間に岐阜城まで落城してしまったため、途中から方針を変更。

家康も秀忠に向かって「すぐに美濃へ来るように!」と連絡をしたのですが、その連絡係が悪天候に阻まれて遅れ、さらに徳川軍も中山道の狭い道に進軍を阻まれ、結局、関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。
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