イラスト・富永商太

徳川家

三河一向一揆(戦国時代)で一体何が起きたのか 鉄の結束・徳川家臣団が分裂?

織田信長
豊臣秀吉
徳川家康

この三名は「三英傑」と呼ばれ、戦国時代を終わらせた天下人として知られますね。

彼らについては、こんな歌が存在します。

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川」

ざっくり意味を捉えれば、

【意訳】信長が頑張ってお餅をついて、秀吉がこねて、家康は座ったまま食ってるだけだよね

という具合に家康だけ小馬鹿にされております。

が、いくらなんでもこれはヒドい誤解であって、その苦労っぷりったらハンパじゃありません。

武田信玄にボコボコにされた【三方ヶ原の戦い】のようにド派手な負け戦は、武士らしくがっぷり戦ったということで、心に生傷が残るようなこともなかったでしょう。

一方、メンタル的に一番辛かったのがこれでは?

というのが永禄六年(1563年)9月5日に始まった三河一向一揆です。

家康の本拠地・三河(愛知県)で大規模な一向一揆が発生し、住民たちが蜂起したばかりでなく、信頼していた徳川家臣団の中からも家康と反目に回り、敵対した者もおりました。

それはいったいどんな流れで起きたのか?

順を追って見てみましょう。

 

三河一向一揆が単なる反乱ではなく……

一向一揆が、単なる反乱やクーデターと違うのは、仏教の一つ・浄土真宗の本願寺に属する人々(一向宗)が起こした戦いだということです。

当時は、一国の主を滅ぼすほどの団結力と実力を保持。

例えば【加賀一向一揆】などは百年あまり大名の空白地だったことで知られます。

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一向一揆については、家康の盟友・織田信長も全面的に激突して、苦労しておりました。

特に加賀を始めとした北陸エリアには、柴田勝家前田利家佐々成政など――織田家中でもパワフルな武将が投下されて、ようやく治めているほどです。

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そんな一向一揆の集団が、家康の地元で発生したのだからサァ大変。

運の悪いことに、三河一向一揆で立ち上がった一向宗徒の中には、石川氏、鳥居氏、酒井氏、吉良氏など、家臣一族の者も含まれておりました。

とりわけインパクトのあるのが、後に家康の懐刀であり、心の友ともなった

本多正信

でしょう。

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家康の家臣「三河軍団」というと「あいつら実は犬なんじゃないの? あの忠実ぶりないわー」とドン引……いや、賞賛されるほどだったのに、よりにもよって、後に家康の側で終始アドバイスを続けた本多正信まで敵方に回るなんて。

あるいは後の【三方ヶ原の戦い】で、家康の身代わりになって戦死する夏目吉信も敵に回っているんですからやぶさかではない。

宗教の団結力には驚かされるばかりです。

 

懐柔策を提案する一方で容赦なく攻め立てる

むろん、家康もビビっているわけにはいきません。

一揆を収束させるために、あらゆる手を使います。

武力でねじ伏せるのも必要ですが、その一方でアメによる対応も忘れず、

「お前らが信仰と主君の間で板ばさみになってるのはわかってる。でも今なら許すから。手遅れにならないうちに戻ってこいよ」

と家臣達に投降を呼びかけていたのです。

実際、こんな仲間内で殺し合っても1ミリもメリットないですしね。

当時の家康は、それまで従っていた今川義元の呪縛から逃れ、信長と同盟を結んだばかりでした。

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その信長にしたってようやく尾張をまとめつつあり、美濃へ攻め入る前のことですから、家康に援軍を送る余裕なんてありません。

力づくで一揆を抑えても、兵や物資、田畑を大きく損失するのは目に見えていたのです。

同情だけでなく、実利的な理由もあって、一揆勢に対して帰参を促したのでしょう。
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