明正二十年(1643年)9月14日は、春日局(かすがのつぼね)の命日です。
江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として知られますよね。
ようやく戦国時代も終わり、徳川将軍に強い影響を与えた女性だけに、さぞかし華やか&高貴な道を歩んできたのだろう……と思われる方もおられるかもしれませが、実際はさにあらず。
「前半生はひたすら真っ逆さま、後半生はバタバタしっぱなし」
そんな忙しい人生を送った人でもあります。
順を追って見ていきましょう。
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春日局の父ちゃんは明智家重臣・斎藤利三です
春日局の本名は斎藤福と言います。
普段は、わかりやすいほう(今回なら春日局)で統一するのですが、前半生については本名で進めますね。理由は後ほど。
まず彼女の父親は、明智光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)です。
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明智光秀は山崎の戦いの後、落ち武者狩りで深手を負い、自害しました(介錯したのは溝尾庄兵衛)。
このとき利三は、光秀と別行動で逃げていたのですけれども、豊臣秀吉の追っ手に捕まって処刑。
当然のことながら娘の福たち斎藤家の人々も追われることとなります。
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彼女がその後どうやって逃げ延びたのか。
どの辺で育ったのか。
詳細は不明ですが、縁戚にあたる四国の長宗我部家に身を寄せていたという説もあります。
あるいは縁戚の公家に厄介になって、さまざまな教養を身につけたとか。
そんなこんなで年頃の女性に成長した福は、親戚のツテで稲葉一鉄の義理の孫・稲葉正成の妻となりました。
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稲葉正成は小早川秀秋の家臣だった人で、【関ヶ原の戦い】では東軍への参加を勧めた人物でもあります。
が、関ヶ原の戦いから間もなく秀秋とケンカして隠居とほぼ同様な扱いになり、そうこうしているうちに秀秋が若くして亡くなるという不幸が続きました。
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夫と別れ、息子を連れて江戸へ引っ越し
福は、浪人となった正成にしばらく付き従っていたと思われます。
が、あるとき京都で
「次期将軍様の乳母募集! 詳細は京都所司代まで」(※イメージです)
という求人情報を得ます。
「これだわ!」と直感した福は即座に応募し、見事採用されました。
乳母になるためには単身・住み込みで江戸城へ行かなくてはいけません。
夫妻のどちらが言い出したのかはこれまた諸説あるのですけれども、結果的に福は離婚を選び、長男・正勝だけを連れて江戸に移り住みました。
お江と福の間には女の戦いがあった!?
幼い家光の乳母となった福。
彼女は公私共に、家光に大きな影響を与えていきます。
「福が家光を可愛がりすぎるので、両親の秀忠・お江は家光よりも次男・忠長を寵愛した」
「お江と福の間には女の戦いがあった」
などなど、このあたりから福に関するコワイ逸話が出てきますが、おそらくは後世の創作と見られています。
家光が生来病弱で神経質な傾向があったのに対し、徳川忠長は健康で明るい性格だったということから、「周囲の人間関係が影響したに違いない」と考えた人がいたのでしょう。
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ドラマなどではそのほうが面白いですしね。
もしくは、福があまりにもマジメに乳母の仕事をしたからこそ、そういう話ができたのかもしれません。
福の忠勤振りを示す逸話として、こんなものがあります。
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