島原城内の天草四郎像

徳川家

最後の戦国・島原の乱を鎮圧した知恵伊豆がエグい! 板倉重昌は悲しい自爆

日本最後の内戦は西南戦争です。

では、参加人数最大の内戦は何でしょうか?

答えは【島原の乱】でして、少々意外ですかね。

九州で起きたこの騒動を平定するため、譜代大名・板倉重昌が江戸を出立したのは寛永十四年(1637年)11月9日のことでした。

教科書では「キリスト教徒が反乱した」ことになっています。

確かにこの頃のキリスト教は江戸幕府によって禁じられていましたので、宗教戦争という見方もあります。

しかし、この反乱にはいくつかの思惑が絡み合っていて、単純に信徒だけの蜂起とも言えません。

戦乱期の様相もいささか残した、最後の戦国とでも言いましょうか。

一連の流れを見て参りましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

島原の乱=(農民+キリシタン+浪人)×天草四郎

島原の乱の原因、その一つは重税に耐えかねた農民の反乱という側面がありました。

江戸時代は、飢饉や災害の多かった時代。

それは島原のある九州も同じでした。

特に寛永11年(1634年)から数年に渡る凶作は酷いもので、そこに藩からの重税が課せられたのですから、民衆が耐え切れなくなるのは時間の問題でした。

『どうせ死ぬなら一矢報いてやろう!』

そんな農民達がキリスト教徒と合流し、あれよあれよと37,000人(約27,000人とも)ほど集まってしまうのだから大変です。

当初の幕府は「素人ばかりの挙兵なんて武士の鎮圧軍を派遣すればスグにカタがつく」と思っていたようですが、この乱は勃発から鎮定までに丸4ヶ月もかかっています。

反乱軍が立て籠もった原城跡

理由は、江戸幕府の抱えていたもう一つの問題にありました。

関ヶ原の戦いと大坂の陣――と、これまでに二つの大きな戦いがあり、巷に浪人(主君に仕えていない武士)が溢れかえっていたのです。

働き口を見つけたくても、大名家のお財布事情が苦しく、なかなか雇い入れてもらえない状況。

こうした浪人達が「野垂れ死ぬくらいなら、最期に一花咲かせてやんぜ!!(でもって運よくお殿様に腕を認めてもらえたらラッキー)」という考えで、反乱に加わったのでした。

今はプー太郎でも元々は武士ですから、武器の扱いも合戦のやり方も知っています。

戦闘経験豊富な浪人が加わってしまったことにより、単なる一揆では済まなくなってしまったのです。

「死なば諸共」

「死に花上等」

「デウス(当時キリスト教の神様をこう呼んでました)の加護あれ!」

こんな集団に、カリスマ的存在の少年・天草四郎(益田時貞)がリーダーとして加わってしまったものですから、とても地元の大名だけでは抑えきれなくなってしまいます。

 

1.5万石じゃ何十万石もの大名を動かせません

乱が起きたのは10月末。

江戸に知らせが届いたのは11月上旬。

大坂の陣から20年が経ち、歴戦の武将達が軒並み死去・引退していた幕府は大慌てとなりました。

「とりあえず真面目でフットワーク軽いヤツ行ってこい!」

かくして選ばれたのが板倉重昌です。

派手な戦功こそないものの、徳川家への忠誠心では誰にも引けを取らず、また咄嗟の機転も利く――自他共に適任と考えていたのかもしれません。

しかし、何と言っても1万5000石しかない小大名です。

九州に着いてみると、そのせいで思わぬ大苦戦を強いられてしまいます。

地元の大名達と共に反乱軍の立てこもる原城を度々取り囲んでも、全く効果が出ない。

それもそのはず、九州は関ヶ原や大阪の陣、そしてその後の改易・転封などで土地に不慣れな大名ばかりで、兵の忠誠心や統率も取れていなかったのです。

悪く言えば烏合の衆ですし、重昌の領地が少ないものだから、誰も積極的に従おうとしてくれません。

蜂起した信者が切り落としたという地蔵/wikipediaより引用

ちなみに、こんな小者じゃ、とても九州の海千山千の大名たちを指揮できないと、あわてて東海道を追いかけた(でも追いつけなかった)のが、あの柳生十兵衛のお父さんの柳生宗矩です。

一方、反乱軍は、美少年(真偽は不明)のリーダーがいる上、宗教やら重税の恨みやら、とにかく後がない状態ですから、戦意も団結力も極めて高い。

幕府軍は実に10万を超える部隊だったものの、板倉重昌も指導力を発揮できず、なかなか決着をつけられない状況でした。

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