金地院崇伝(以心崇伝)

金地院崇伝(以心崇伝)/wikipediaより引用

徳川家

家康の側近だった黒い僧侶たち~金地院崇伝vs南光坊天海の勝者は?

世俗の欲を捨て、神様仏様に使えるのが聖職者。

しかし、歴史を振り返れば、とてもそうとは思えない人も大勢いますよね。

当初から欲まみれだったのか、徐々にそうなったのか。

もちろん人それぞれですが、寛永十年(1633年)1月20日に亡くなった金地院崇伝(以心崇伝)は、どちらかというと前者として見られることが多いようです。

【黒衣の宰相】とも呼ばれたりしますね。

このアダ名は彼固有ではなく、他に5人ほど候補が挙げられます。

◆源平時代の藤原信西

室町時代の満済准后

◆今川家の太原雪斎

太原雪斎
義元を支えた黒衣の宰相・太原雪斎 武田や北条と渡り合い今川は躍進

続きを見る

◆毛利家の安国寺恵瓊

◆徳川家の南光坊天海

全員キャラが濃すぎて、お腹の中がブラックなのがひしひしと伝わってきますが、果たして金地院崇伝は本当に黒いのか。

いかにして徳川家康に重用されたのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

徳川家康
史実の徳川家康は三度の絶体絶命をどう乗り越えた?天下人の生涯75年

続きを見る

 


金地院崇伝(以心崇伝)の出身は一色家

崇伝は永禄十二年(1569年)、一色秀勝の子に生まれました。

一色家は室町幕府の重臣の家。父の秀勝はあの剣豪将軍こと足利義輝に仕えていた武将です。

足利義輝
刀を握ったまま斃れる壮絶な最期~足利義輝13代将軍の生涯30年まとめ

続きを見る

大河ドラマ『麒麟がくる』でもご存知の通り、当時の幕府は凋落著しく、一色家も厳しい状況にありました。

そのためか、崇伝は若くして南禅寺に入り、まずは玄圃霊三(げんぽれいざん)という僧侶の弟子になっています。

醍醐寺三宝院でも学んだりして順調に修行を積んでいった崇伝は、その後、37歳で、臨済宗及び禅寺の中で最も格の高い南禅寺で住職になりました。

金地院崇伝の「金地院」とは、このころ再興したお寺から来ています(江戸や駿府にも金地院を建立している)。

このとき、徳の高いお坊さんにしか与えられない【紫衣】を後陽成天皇から賜っていました。

金地院崇伝/wikipediaより引用

 


表舞台へ出てきたのは関ヶ原後

崇伝が政治の舞台に出てくるのは、慶長十三年(1608年)のこと。意外にも関ヶ原の戦い後なんですね。

西笑承兌(さいしょうじょうたい)という、これまた家康の知恵袋だったお坊さんが亡くなってしまったので、その代わりが務まる僧侶ということで駿府へ招かれたのです。

承兌は、直江兼続が例の慇懃無礼な果たし状【直江状】を出したときの宛て先でもありますので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょうか。

直江兼続
戦国武将・直江兼続の真価は「義と愛」に非ず~史実に見る60年の生涯

続きを見る

直江状
家康激怒の『直江状』には何が書かれていた?関ヶ原を引き起こす手紙

続きを見る

ちなみに、こうした僧侶が重んじられるのは、学識を備えた彼らが外交・文化面で活躍したからです。

日本国内のみならず、このころ家康はアジア各国との交渉にも及んでいて、正式な国書に用いる「漢文」に精通した崇伝が活躍しました。現代の政治でいえば有識者会議みたいなものですね。

 


黒いライバル・南光坊天海

承兌という実力者の後任を任された崇伝ですので、当初からある程度の権力と仕事を任されていました。

特に江戸幕府の根幹となる法律の制定に大きく関わっています。

武家諸法度】や【禁中並公家諸法度】、はたまた【キリスト教の禁止】や豊臣家を潰した【方広寺鐘銘事件】など。

武家諸法度
家康が制定させた武家諸法度はどんな内容?幕府の屋台骨となる武家法

続きを見る

禁中並公家諸法度
家康と秀忠の名で出された『禁中並公家諸法度』には何が記されてる?

続きを見る

この時期のテストに出そうな単語にはだいたい絡んでいます。

豊臣家を潰した方広寺鐘銘事件について最近の通説では「崇伝の描いたシナリオではない」とされますが、豊臣方への詰問をしたそうで、いかにも頭脳のキレるタイプであることが伺えます。

まぁ、そうでなければ家康に重宝されませんよね。

文化面でも『日本後紀』や『続日本後紀』をはじめ『類聚国史』や『律令』など多くの記録を残していくよう命じたりしています。さすが僧侶出身。彼が、江戸時代初期の知識面を支えていたと言っても過言ではないでしょう。

しかし、徳川政権においては、そのまま崇伝の独壇場とはなりませんでした。

同じく家康の側近だった南光坊天海との対立があったのです。

南光坊天海/wikipediaより引用

特に家康が亡くなったとき、この二人は火花が飛びそうな争いようでした。

というのも……。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-徳川家
-,

×