本多忠勝

イラスト・富永商太

徳川家

本多忠勝(徳川四天王)63年の生涯と5つの最強エピソード!年表付

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エピソード2「初首」

13歳の初陣は、さすがの忠勝も大活躍とはいかない。

敵(織田方)の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになり、叔父であり育ての親でもある本多忠真(ただざね)に救ってもらっている。

ただし、14歳時の「登屋ヶ根城攻め」(愛知県豊川市長沢町)では、

意訳「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」

原文「のち、かならず、物の用に立つべきものなり。」(『寛政重修諸家譜』)

と叔父・本多忠真に言わしめた逸話が残っている。

登屋ヶ根城(愛知県豊川市長沢町)

このときは、育て親の叔父・本多忠真が、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようとして奮迅。

敵兵を倒し「この敵兵の首をとれ」と言うと、本多忠勝はこう答えた。

「我、あに人の力を借りて功を立てむや」

「他人の力を借りてまで戦功を立てたくはない」

そして自ら敵陣に駆け込んで、敵兵の首をあげたのだ。

本多忠真は感涙し「のち、かならず、物の用に立つべきものなり」と徳川家康に言上する。

この「登屋ヶ根城攻め」後、本多忠勝は「鹿角脇立兜」の制作を依頼。

さらには愛刀「稲剪りの大刀」、愛槍「蜻蛉切」を次々と手に入れ、16歳の時には「三河一向一揆」(注)鎮圧戦において、一向宗から浄土宗に改宗する。

徳川家康側につき、多くの武功を挙げたのだ。

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かくして「蜻蛉切の平八郎」と呼ばれるようになった。

※三河一向一揆:西三河(三河国西部地方)全域で永禄6年(1563年)9月から翌・永禄7年(1564年)2月までの約半年間行われた一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆。

 

エピソード3「一言坂の戦い」

生涯無傷の本多忠勝。

最強武将と称えられる所以の要因であるが、それは全戦全勝を意味するものではない。

当然ながら敗戦も経験しており、同時にその名を轟かせたのが【一言坂の戦い】である。

林大功画「本多平八郎忠勝一言坂奮戦図」

忠勝25歳の時だった。

遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄

その偵察に出向いた忠勝は武田軍に見つかってしまい、図らずも【三方ヶ原の戦い】の前哨戦となってしまう。

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危険な殿(しんがり)を務めた忠勝は、上の絵にもあるように、見付(静岡県磐田市見付)に火を放ち、武田軍の追撃を遅らせた。

そして一言観音を祀る「一言坂(ひとことざか)」で追いつかれて、戦いとなる。

この時のすさまじい戦いぶりをして、徳川家康は「平八郎(本多忠勝)が八幡神に見えた」と絶賛。

敵である武田軍の武将・小杉左近(武田信玄の近習)も、

──家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多平八

と書いた札を立てて褒め称えた。

続く「三方ヶ原の戦い」で徳川史上、最大となる敗戦を喫し、父と慕っていた叔父の本多忠真も討死。

退却の際、自ら殿を申し出ての悲劇であった。

忠真は、我が子として育てた忠勝の活躍ぶりを見て、

「自分の役目は終わった。ここが死に場所」

と思ったかものしれない。(※実子は出家している)

以下は、本多忠真の忠義を称えるために建てられた「表忠彰義之碑」である。

現地案内板からその内容をお伝えしよう。

「表忠彰義之碑」(犀が崖)

「この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。

本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。

本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿を買って出ました。

道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。

忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。

この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。

また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。」(現地案内板)

徳川に多くの忠臣を輩出した本多家であるが、この活躍がもっと世に広まることを願いたい。

 

エピソード4「小牧・長久手の戦い」

時計の針を少し進めて、忠勝37歳。

この年、徳川家康(本陣:小牧山城)は、柴田勝家をも倒し気勢をいっそう増す羽柴秀吉(後の豊臣秀吉/本陣:楽田城)と、覇権の座を巡る合戦へと突入していった。

後に【小牧・長久手の戦い】と呼ばれる天下分け目の一戦である。

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秘密部隊を組ませ、岡崎を狙う(三河中入り)秀吉。

作戦に気づき、長久手で襲いかからせた家康。

最初の大きな衝突「長久手の戦い」は、徳川四天王・井伊直政隊による「井伊の赤備え」が華々しいデビュー戦を飾る。

忠勝はこのとき、小牧山城で留守居役をしていた。

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挽回を目論む羽柴秀吉は、次に小牧山城への攻撃を構想したところで

「徳川家康は小牧山城ではなく長久手にいて、秘密部隊の作戦は破れた」

と聞く。

しかし好機なり――。

秀吉は、2万の軍勢を率いて長久手へ軍勢を差し向けた。むろん家康本隊を叩くためである。

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それを阻んだのが、手勢わずか500人の本多忠勝・決死隊だ。

羽柴秀吉の大軍と、龍泉寺川を挟んで対峙した本多忠勝。

寡兵とは思えぬ大胆な行動に出る。

悠然と馬に水を飲ませのだ。

即座に襲いかかればたとえ本多忠勝でも――とはならないのが天の邪鬼な秀吉のサガ。

忠勝の剛胆さに触れ、家臣に召し抱えたくなり、

「まことに無双の勇士なり」

と、配下の者たちに「戦うな」と命じた。

【原文】『寛政重修諸家譜』

太閤これをのぞみ、「鹿角の兜を着し、馬に水かふものは何者なり」ととふ。左右答へて、

「徳川家の将・本多忠勝なり」とつぐ。

太閤、其の大胆なるを感じ、「まことに無双の勇士なり」とて、麾下に令し、たゝかふことなからしむ。

その夜、羽柴秀吉は、龍泉寺に宿泊。

一報を掴んだ忠勝は、徳川家康に向かって進言した。

「羽柴秀吉の軍隊は、人数は多いが、まとまりに欠くので、今なら秀吉を討てる!」

しかし家康は「羽柴秀吉を侮ってはいけない」と忠告、夜の闇に紛れて密かに小牧山城へ戻ることにした。

翌朝、秀吉が家康に襲いかかるべく小幡城へ出向くと、もぬけの殻。

すでにその姿はなく「徳川家康とは、誠に恐ろしい人物だ」と言って、楽田城へ戻って守備を固めた。

「英雄、英雄を知る」と言う。天下人の両者は、互いにその力量を畏れていたのであろう。

結局、両者は決定的な武力衝突には至らず、この後、政治的駆け引きで織田信雄を丸め込んだ秀吉が天下の趨勢を握っていくことになる。

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なお、豊臣秀吉は、本多忠勝を家臣にしようと思い、数々の豪勢なものを贈った。

・相州貞宗の腰刀

・藤原定家直筆「小倉山荘色紙」(小倉百人一首

・「義経四天王」佐藤忠信の兜

・従五位下

・中務大輔

要は調略を試みたのだが、実は、あの織田信長も「花実兼備の勇士」と讃え、忠勝を欲したことがある。

家康はこのとき「余人に代え難い」と断ったという。

秀吉の場合は、直接、本多忠勝に申し込み、

「秀吉の恩は恩。譜代の恩はさらに忘却し難し」

と断られていた。

味方は勿論、敵からも称えられ、三英傑に愛された本多忠勝──。

現代においても随一の人気武将となる理由が見えてこよう。

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