承応四年(1655年)2月21日は、福山藩二代藩主・水野勝俊(かつとし)が亡くなった日です。
戦国ファンの皆様にとっては、藩主としてよりも、あの水野勝成の息子といったほうがイメージしやすいでしょうか。
トーチャン勝成は、徳川家康のイトコながら、エクストリームな出戻りかつ長命などなど、エピソードに事欠かない人物。
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では、その息子・水野勝俊とはどういう人だったのか。
早速振り返ってみましょう。
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父放浪中に生まれた息子
勝俊が生まれたのは、慶長三年(1598年)。
父がまだ放浪中のときでした。
なんせトーチャン勝成と来たら、父親の家臣をぶっ殺し、その父と大喧嘩の末水野家を追い出され、豊臣秀吉やら黒田官兵衛やら佐々成政やら、名だたる大名のもとをいくつも転々とし、暴れん坊の名を欲しいままにしていた御方です。
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よくその立場で子供を作ろうと思ったものですが、勝俊の母の身分からすると「なるようになった」という経緯だったのでしょうか。
勝成は、家康の仲介などもあって後に水野家に復活。
政権樹立の立役者となります。
元々、水野家は家康の母・於大の方の実家ですし、徳川家としても期待するところは大きかったでしょう。
父の勝成が二代目将軍・徳川秀忠に仕えはじめた頃、息子の勝俊も母と共に江戸へ呼び寄せられ、武士として公式デビューを果たしています。
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又兵衛と戦ったり幸村の攻撃を守ったり
勝俊は、大坂の陣で冬(1614年)・夏(1615年)ともに参陣し、特に夏の陣では手柄を挙げました。
父の隊が後藤又兵衛隊と戦ったり、真田幸村が家康を急襲したときに背後を塞いだりしているので、おそらく勝俊もこのどちらか(あるいは両方)で御首の一つや二つ取ったのでしょう。
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ちなみに父の勝成は、家康から「前に出るなよ、絶対だぞ、マジなやつだからな!!!」と厳命されているにも関わらず、後藤又兵衛との戦いでは一番槍の功を挙げたりしてます。
ほんと、年取っても「KING OF 戦国武将」みたいな人で、勝俊も頭を抱えたのではないでしょうか。
豊臣家が滅び、幕藩体制も確立&安定化へ。
水野家は福山藩に封じられ、その後【島原の乱】に出陣したときなども、父に従って動いています。
親子間で目立ったエピソードはありませんが、一言でいえば「よくできた息子」という感じですね。
ちなみに福山藩は、元は福島正則の領地だったところです。
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正則が広島城の無断で修築したことによって改易されたとき、領地がいくつかに分割され、そのうち福山藩が水野家の領地となりました。
そこで勝成が建てたのが福山城ですね。
父は放浪していた頃、福山周辺にいたため土地柄に詳しかったため、ぜひにと幕府にかけあって封じられたのだとか。
それだけにやる気も大きく、入封直後からさっそく城や町、灌漑設備などの整備に力を注いでいます。
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