石川数正

石川数正/wikipediaより引用

徳川家

家康の右腕・石川数正はなぜ豊臣へ出奔した?その生涯と知将エピソード

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石川数正
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石川数正の死

石川数正は【文禄の役】(朝鮮出兵)に参加している。

500騎を率いて肥前名護屋(佐賀県唐津市)まで出張したのだが、その陣中で亡くなった。

文禄元年(1592年)12月14日、京都七条河原で葬儀が行われている(『言経卿記』)。

かつて松本に入った時、石川数正は、一向宗(真宗)に改宗していた。

遺灰と遺骨は、松本に送られて、菩提寺の正行寺(真宗大谷派・長野県松本市大手5丁目)に埋められただけではなく、故郷三河の本宗寺(真宗本願寺派・愛知県岡崎市美合町)にも埋められた。

戒名は「箇三寺殿的翁宗善大覚位」である。

石川数正の墓(本宗寺)

石川数正の出奔=スパイ説の山岡荘八自筆の墓碑銘(本宗寺)

 

家督を継いだ息子は?

後の徳川栄華を思うと、この時点で亡くなっていたのが数正にとっては幸せだったのか。

石川家の家督は長男・石川康長が継ぎ、遺領の10万石は、

◆長男 石川康長が松本8万石

◆次男 石川康勝が安曇郡15000石

◆三男 石川康次が5000石

をそれぞれ分割相続した。

しかし石川康長は、大久保長安事件に連座したとして、弟の康勝、康次と共に改易され、石川家は絶えた。

一説には【大坂の陣】で討ち死にしたとも伝わる。

石川家は絶えたのに、松本にご子孫がおられるという。

浅間温泉は古代から知られていた温泉で、伝承では「大和政権の別荘地」だそうだ。

ここに、初代松本藩主・石川数正が、歴代城主のための「御殿湯」を置くと、城主や家臣たちの別邸が建ち並び、「松本の奥座敷」と呼ばれるようになった。

「御殿湯」の初代湯守(御殿守)には、石川数正の三男・康次の子である石川昌光が就任。

彼は戦で負傷して歩行困難となったので湯守に選ばれ、命を奪われることが無かった。

そのため松本にご子孫がおられるという。

 

【石川数正略年表】※年齢は数え年

天文2年(1533年) 1歳 三河国で誕生
天文3年(1534年) 2歳
天文4年(1535年) 3歳
天文5年(1536年) 4歳
天文6年(1537年) 5歳
天文7年(1538年) 6歳
天文8年(1539年) 7歳
天文9年(1540年) 8歳
天文10年(1541年) 9歳
天文11年(1542年) 10歳 竹千代(後の徳川家康)誕生
天文12年(1543年) 11歳
天文13年(1544年) 12歳
天文14年(1545年) 13歳
天文15年(1546年) 14歳
天文16年(1547年) 15歳
天文17年(1548年) 16歳
天文18年(1549年) 17歳 竹千代(8歳。後の徳川家康)、人質として駿府へ。石川数正、同伴。
天文19年(1550年) 18歳
天文20年(1551年) 19歳
天文21年(1552年) 20歳
天文22年(1553年) 21歳
天文23年(1554年) 22歳 長男・石川康長誕生
弘治元年(1555年) 23歳
弘治2年(1556年) 24歳 竹千代、元服し、「松平元信」と名乗り、瀬名姫と結婚。
弘治3年(1557年) 25歳
永禄元年(1558年) 26歳
永禄2年(1559年) 27歳
永禄3年(1560年) 28歳 「桶狭間の戦い」。「三鹿の渡し」で矢作川を渡る。
永禄4年(1561年) 29歳 「石ヶ瀬川の戦い」で活躍する。
永禄5年(1562年) 30歳 「清洲同盟」締結に貢献する。「上ノ郷城攻め」後、人質交換に成功する。
永禄6年(1563年) 31歳 松平元康、「松平家康」に改名。「三河一向一揆」勃発。石川数正、浄土宗に改宗。
永禄7年(1564年) 32歳 「三河一向一揆」鎮圧。石川数正による土呂の復興事業が始まる。
永禄8年(1565年) 33歳
永禄9年(1566年) 34歳 松平家康、三河国を統一し、「徳川家康」と改名。
永禄10年(1567年) 35歳 松平信康、元服。後見人は、石川数正と平岩親吉。
永禄11年(1568年) 36歳
永禄12年(1569年) 37歳 石川数正、西三河の旗頭となる。
元亀元年(1570年) 38歳
元亀2年(1571年) 39歳
元亀3年(1572年) 40歳 「三方ヶ原の戦い」で活躍する。
天正元年(1573年) 41歳 松平信康、初陣。(具足親は松平重吉。)
天正2年(1574年) 42歳
天正3年(1575年) 43歳 「長篠の戦い」。鳥居元忠と共に馬防柵を設置。水野信元を殺害する。
天正4年(1576年) 44歳
天正5年(1577年) 45歳
天正6年(1578年) 46歳
天正7年(1579年) 47歳 築山殿、松平信康、自害。
天正8年(1580年) 48歳
天正9年(1581年) 49歳
天正10年(1582年) 50歳 「神君伊賀越え
天正11年(1583年) 51歳 羽柴秀吉に「初花」を贈る使者に選ばれる。
天正12年(1584年) 52歳 「小牧・長久手の戦い
天正13年(1585年) 53歳 出奔し、羽柴秀吉に仕える。
天正14年(1586年) 54歳 9月9日、羽柴秀吉、「豊臣秀吉」に改名。和泉国に8万石。従五位下に叙任。
天正15年(1587年) 55歳
天正16年(1588年) 56歳
天正17年(1589年) 57歳
天正18年(1590年) 58歳 「小田原城攻め」後、信濃国松本10万石に移封。一向宗に改宗する。
天正19年(1591年) 59歳
天正20年(1592年) 60歳 12/8、「文禄」に改元。12月、肥前国の陣中で没。12月14日、京都で葬儀。

 

石川数正 ゆかりの地リスト

・小川城址(愛知県安城市小川町志茂):出生地?
・石川山蓮泉寺(愛知県安城市小川町志茂339):三河石川氏の寺
・土呂城(愛知県岡崎市福岡町):「三河一向一揆」後に石川数正が築城
・土呂八幡宮(愛知県岡崎市福岡町南御坊山19):「三河一向一揆」後に石川数正が再建
・「土呂三八の市」発祥地(愛知県岡崎市福岡町):「三河一向一揆」後に石川数正が開始
・松本城(長野県松本市丸の内4-1):城主となった石川数正が改修開始
・鎮神社(長野県松本市大手4丁目4-15):石川数正が水神を祀った神社
・浅間温泉(長野県松本市浅間温泉):石川数正の子孫が代々湯守
・正行寺(長野県松本市大手5丁目6-36):菩提寺
・浄林寺(長野県松本市里山辺→中央1丁目):石川数正の御霊社(焼失)
・兎川寺(長野県松本市里山辺2940):石川数正夫妻の供養塔
・本宗寺(愛知県岡崎市美合町平地50):石川数正の墓

「[特別展]安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族」
場所:安城歴史博物館(安祥城三の丸跡地。愛知県安城市安城町城堀)
期間:平成30年9月22日(土) ~ 11月4日(日)
サイト

10月6日記念講演会「家康の重臣 石川数正」(平野明夫)
11月3日記念講演会「松本城と石川数正・康長」(後藤芳孝)
10月27日歴博講座「家康の友 石川家成、恋敵 康通」(三島一信)
サイト

 

数正史料・語句説明

大久保忠教『三河物語』

伯耆守、御供申して岡崎に入らせ給う。上下万民つづいて御迎に出でけるに、石川伯耆守は、大髯喰いそらして、若君を頸馬に乗せ奉りて、念子が原へ打上で通らせたもうことの見事さよ。何たる物見にも、「これに過ぎたるはあらじ」とて見物す。

湯浅常山『常山紀談』

東照宮、今川氏真と御不快の事起りし時、兼て駿河に岡崎三郎君、とゞめおかせ給ひしを生害すべきよし聞ゆ。石川伯耆守数正、此由聞きて、「いとけなき御身の失れさせ給はんに、御介錯に侍ふ人なからん事こそ口惜けれ。よしよし数正、罷り向ひて冥途の御供にこそ参らめ」とて、唯一人、駿府におもむく。かゝる処に、「今川の侍大将・鵜殿が子二人生どられ、氏真なげき給ふ」と聞き、わが君の外祖・関口刑部大輔と相はかり、「若君返させたまはんには、鵜殿が子、返しまゐらせん」と望む。氏真、悦びて、やがて若君を返し参らす。数正、肩にのせ申し、岡崎に帰りければ、御家人はいふにや及ぶ、国中の貴賤、御むかひに参りつどうて、感ぜぬものこそなかりけれ。

「初花の茶入」(「初花肩衝」とも)

「楢柴肩衝」「新田肩衝」と並んで「天下三肩衝」と呼ばれる茶入。

「肩衝(かたつき)」とは、怒り肩の茶入のこと。撫で肩の茶入は「茄子(なす)」と呼ばれる。

織田信長が、嫡男・信忠に渡し、その後、徳川家康が織田信長の遺品として保管していたという。現在、「初花の茶入」は、徳川記念財団が保管している。

「初花の茶壺」

長沢松平親宅(親家、念誓入道)が、長雨によるがけ崩れで土中から出てきた壺を買い取り、「初花の茶壺」と名付けて徳川家康に献上した。

徳川家康は非常に喜び、この「初花の茶壺」に入れるお茶を毎年作るよう命じた。

松平親宅は、山畠村(上地八幡宮(愛知県岡崎市上地町)周辺)に茶園を作り、京都から茶師・上林竹庵政重を呼び、宇治から「初昔」「白昔」「初鷹」といった良質の苗を取り寄せて栽培した。

これが「ずいずいずっころばし 胡麻、味噌ずい♪」と謡われる「お茶壺道中」の起源である。

現在、「初花の茶壺」は、福井市立郷土歴史博物館が保管している。

──慶長9年(1604年)「八月三日、三河国目代・松平清蔵親家入道念誓が子・清蔵親重つぐ。此入道は、松平備中守親則より出て長沢松平の庶流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三郞君に仕へしが、わかくしてあらあらしき御ふるまひありしを諫かね、職を乱し、入道して「念誓」と号し籠居せしを、浜松の城におはせし頃召出され、御茶園の事など命ぜられ、入道が珍蔵せし「初花の茶壺」を献じければ、望の儘に御朱印の御書をたまはり、葵の紋用ふることをも許され、三河一国の賦税をつかさどらせられしが、齡つもりて七十一歲にてけふ没せしとぞ。(寬政重修譜。由緖書。此子孫、三河国額田郡土呂鄕にすみて松平甚助と称す。)」(『徳川実紀』)

「不動国行」

羽皐隠史『詳註刀剣名物帳』には「小牧山合戦の後、和議成立したれば、秀吉より富田左近将監を使者としてこの刀を家康に贈る」とある。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載していた。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/
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