服部半蔵正成

服部半蔵正成(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康の懐刀・服部半蔵正成は忍者というよりむしろ武士!55年の生涯

◆人物概略:服部半蔵正成

全部で十数代つづいた“服部半蔵”の中で、最も有名な半蔵。

二代目で、天文11年(1542年)生まれ。

初代は、父の服部保長であり、その五男である正成(まさなり)が二代目・服部半蔵を継いだ。

家康と同年であり、若い頃から徳川軍の数々の戦に従軍。

伊賀忍びの者60~70名を引き連れて合戦に参加していたとする記録があり、宇土城攻めのときには城内へ忍び入って戦果を挙げた。

他にも【掛川城攻め】や【姉川の合戦】、【三方ヶ原の戦い】にも参加しており、それらの活躍が認められて「伊賀者150名」を持つことを許されている。

さらには

松平信康事件
・伊賀越え

などでも家康の信任を得て、晩年には遠江国に8,000石の知行を与えられた。

江戸に入ったときには与力30騎と配下200名を率いる立場に。

忍者ではなく武士として認められていた。

慶長元年(1596年)11月4日没。

享年55。

死後は長男の正就(まさなり)が5,000石を継ぎ、弟・正重が3,000石を与えられている。

なお『寛政重修諸家譜』によると、【服部氏の祖先】は允恭天皇の時代に織部司に任じられ伊賀へ土着したという説と、葛原親王(桓武天皇の子)の流れを汲む平氏という説がある。

以下本文へ。

 

11月4日は服部半蔵正成の命日

「Ninja」という単語が諸外国へ広がったのは1964年の東京五輪がキッカケだったのではないか?

そんな興味深い記事が以前、本サイトで掲載されておりました。

Ninja
Ninja(忍者)が世界に普及したキッカケは1964年東京五輪ではないか

続きを見る

外国人に限らず、Ninja=忍者は日本でも人気コンテンツの一つ。

その代表的人物がこの方でしょう。

慶長元年(1596年)11月4日、”服部半蔵”の通称で知られている服部正成(まさなり)が亡くなりました。

11月14日説もありますが本稿では国史大辞典(寛政重修諸家譜)に準拠して進めます。

忍者というと冷酷・すばしっこい等々のイメージが強いですが、実はこの人は忍者よりも【侍】らしい仕事をよくやっています。

中でも有名なものは

「松平信康(徳川信康)の切腹

徳川家康の伊賀越え」

に関するものですね。

 

信康に薦めた側室が旧武田家臣の娘だった

織田信長と徳川家康の間には【清洲同盟】という強固な結びつきがありました。

しかし信長が、家康を疑ったことがないワケじゃありません。

特に大きな一件が、松平信康の自害事件に関わるものです。

この事件は、未だに真相不明とされておりますが、一つのキッカケとして松平信康の妻である徳姫が、父の信長に宛てた手紙が指摘されます。

では、どんな内容の手紙だったのか?

というと【松平信康とその実母・築山殿に関する12か条の批判】であり、以下、全部を読まずとも大丈夫ですので、に注目してください。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。

③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。

④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。

武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。

⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。

⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。

⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。

⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。

⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。

※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

を繋げると、つまりは松平信康が武田家になびいて、徳川家と織田家に災いをなす(殺害を要請している)――と読めるわけです。

詳細は以下の記事に譲りますが、

松平信康
松平信康(家康の長男)はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察

続きを見る

築山殿築山殿(瀬名姫)
築山殿/瀬名姫(家康の正室)は重たい女?最後の手紙と殺された理由

続きを見る

実際、なかなか男児が生まれない状況を心配した松平信康の母・築山殿が自分の侍女を息子に引き合わせておりました。

その侍女が旧武田家臣の娘だったんですね。

敵の女を旦那に近づけられるなんて、徳姫としては正室のプライドを傷つけられ、姑への不信感はMAX。

そりゃあ怒りたくもなる。

ってもんで、手紙を読んだ信長は、松平信康と築山殿の処刑を家康に命じました。

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