あるいは武田信玄には三条夫人や伊達政宗には愛姫など、戦国時代の英雄たちには著名な奥さんがおられますが、肝心の徳川家康ってどうでしょう?
フィクションでもあまり表に出ない……と思ったら、大河ドラマ『おんな城主 直虎』では存在感ありましたね。
菜々緒さんが演じた築山殿。
非常に凛とした、旦那の阿部サダヲ家康との対比が印象的でした。
本日の『日本史ワル査定』は彼女に注目です!
丹羽せいら様、菜々緒様、瀬名を演じていただきありがとうございました!お2人のこれからの活躍が楽しみです! #おんな城主直虎 pic.twitter.com/Zd0J6moXSw
— 築山御前(瀬名) (@tsukiyamagozen) November 19, 2017
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義元の姪 今川家のお嬢様だった
江戸幕府を開いた家康の正妻・築山殿――。
さぞかし華やかな経歴だろう、と思いきや、実は生年や本名共に不明です。
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岡崎城郊外の築山に幽閉されたことから『築山殿』と呼ばれる場合があります。
他にも「駿河御前」や「瀬名姫」など色々な呼び方がありますが、ここは「築山殿」でいきましょう。
彼女は通説だと今川義元の姪。
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井伊直虎や井伊直政のことが書かれた『井伊家伝記』等では井伊直平の孫にあたり、今川家に養女として入った後、家康と結婚したという説もあります。
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今川家は、将軍家にも連なる名家ですから、そのお嬢様となれば徳川家(当時は松平家)にとっては悪くない話です。
家康との間には一男一女をもうけましたが、では築山殿はどんな人だったの?
というと色々とボロクソに書かれております。
・生得悪質、嫉妬深き御人也
・其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し
性格悪くて嫉妬深い――ってことですね。
伝承でも「家康のお手つきで妊娠した女中を裸で木にくくりつけた」なんて恐ろしい話が残っております。
ただし、彼女の生涯を見てますと、かなり可哀想な経緯を辿っているのです。
親は自害に追い込まれ夫とも離れ
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今川義元が織田信長に討ち取られると、夫の家康は、妻の実家である今川を見限り岡崎城へ入城。
さらに織田と軍事同盟を結んでしまいます。
これにキレたのが新当主・今川氏真(義元の息子かつ寿桂尼の孫)で、築山殿の親は自害に追い込まれてしまいます。
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彼女と2人の子供は、徳川と今川の人質交換によって、生かされました。
そして夫・家康の元に戻るワケですが、姑である「於大の方(おだいのかた)」と折り合い悪く城に入れてもらえません。
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尼寺での幽閉生活を強いられ、永禄10年(1567年)、息子の松平信康が織田信長の娘・徳姫と結婚した時もまだ城外生活でした。
3年後の1570年。
ようやく城に入れてもらえたと思ったら、夫の家康は浜松へお引っ越し。
息子・松平信康と岡崎に残った築山殿でしたが、嫁の徳姫とも折り合いがよろしくありませんでした。
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まぁ、徳姫の父である織田信長が、今川義元を討ち、その余波で彼女の親も自害することになったんですからね。
湧き出る負の感情を抑えられなかったのかもしれません。
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