服部半蔵正成

服部半蔵正成/wikipediaより引用

徳川家

家康の懐刀・服部半蔵正成は忍者というよりむしろ武士~55年の生涯

「Ninja」という単語が諸外国へ広がったのは1964年の東京五輪がキッカケだったのではないか?

そんな興味深い記事が以前、本サイトで掲載されておりました。

Ninja
Ninja(忍者)が世界に普及したキッカケは1964年東京五輪だった?

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外国人に限らず、Ninja=忍者は日本でも人気コンテンツの一つ。

その代表的人物がこの方でしょう。

慶長元年(1596年)11月4日、”服部半蔵”の通称で知られている服部正成(まさなり)が亡くなりました。

11月14日説もありますが本稿では国史大辞典(寛政重修諸家譜)に準拠して進めます。

実は全部で十数代も存在した“服部半蔵”の中で、最も有名な半蔵が、二代目であるこの服部正成(まさなり)。

忍者というと冷酷・すばしっこい等々のイメージが強いですが、実際のところは【侍】らしい仕事をよくやっています。

中でも有名なものは

松平信康(徳川信康)の切腹

徳川家康の伊賀越え」

に関するものですね。

一体どういうことか?

服部半蔵正成の生涯と共に振り返ってみましょう。

 

信康に薦めた側室が旧武田家臣の娘だった

二代目服部半蔵こと服部正成は天文11年(1542年)生まれ。

父は初代の服部保長であり、正成はその五男でした。

家康と同年であり、若い頃から徳川軍の数々の戦に従軍。

伊賀忍びの者60~70名を引き連れて合戦に参加していたとする記録もあり、宇土城攻めのときには城内へ忍び入って戦果を挙げています。

最終的に「伊賀者150名」を持つことを許されるのですが、家康と同様、正成も当初は順風満帆だったとは言えません。

特に知られているのが松平信康事件でのエピソードでしょう。

よく知られるように、織田家と徳川家の間には【清洲同盟】という強固な結びつきがありました。

家康の長男・松平信康のもとには、信長の長女・徳姫が嫁入りするほど。

しかし、この婚姻が不幸の種となります。

松平信康事件の真相は、未だに不明とされておりますが、一つのキッカケとして妻の徳姫が、その父・信長に宛てた手紙が指摘されます。

では、どんな内容の手紙だったのか?

というと【松平信康とその実母・築山殿に関する12か条の批判】であり、以下、全部を読まずとも大丈夫ですので、に注目してください。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。

②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。

③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。

④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。

武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。

⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。

⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。

⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。

⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。

⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。

⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。

⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。

※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

を繋げると、つまりは松平信康が武田家になびいて、徳川家と織田家に災いをなす(殺害を要請している)――と読めるわけです。

詳細は以下の記事に譲りますが、

松平信康
家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察

続きを見る

築山殿築山殿(瀬名姫)
家康の正室・築山殿(瀬名姫)は重たい女?最後の手紙と殺害理由

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実際、なかなか男児が生まれない状況を心配した松平信康の母・築山殿が自分の侍女を息子に引き合わせておりました。

その侍女が旧武田家臣の娘だったんですね。

敵の女を旦那に近づけられるなんて、徳姫としては正室のプライドを傷つけられ、姑への不信感はMAX。

そりゃあ怒りたくもなる。

ってもんで、手紙を読んだ信長は、松平信康と築山殿の処刑を家康に命じました。

 

信長vs家康vs家康長男にはさまれて

いくら格上の同盟相手とはいえ、嫡男の処分とは穏やかではありません。

当然、徳川家は大混乱に陥りました。

織田信忠(信長の嫡男)様より信康様のほうが出来がいいから信長は僻んでいるんだ!」

「娘の言い分だけ聞くとか何様だよ!」

「同盟破棄して一戦しましょう!」

「でもウチだけじゃ勝てないだろ? 信玄のとき(三方が原の戦い)みたいになるかもよ?」

などなど、さまざまな意見が飛び交い、迷った家康は信長との同盟存続を選び、息子と正妻の殺害を決意するのでした。

実際は、家中が松平信康派と徳川家康派に分裂する親子の権力争いだった――そんな見方もあり、なかなか有力な指摘にも見えますが、いずれにせよ家康が処刑を決意したことには変わりません。

切腹を命じられた信康。

その介錯(とどめ)を命じられたのが二代目・服部半蔵こと服部正成だったのです。

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