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【酒井忠次】
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長篠では別働隊を率いて
かといって、めちゃくちゃおカタい人だったのかというと、そうでもなさそうです。
「宴では家中一同や同盟相手の前で”海老すくい”という踊りを披露し、場を盛り上げた」なんて話も伝わっています。
ちなみにこの踊り、酒井家のお家芸というわけでもないそうで、詳細がわかっていません。末裔の方もご存じないようです。
たぶん忠次個人の特技だったということなのかもしれません。
と、それはともかく、忠次は陰に日向に家康を支えました。
そんな忠義心は織田信長にも信用されていたのでしょう。
天正三年(1575年)【長篠の戦い】では、信長の命で、別働隊を率いて武田軍に奇襲を仕掛けています。
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これが見事に大成功。
退路がなくなった武田勝頼は前へ進むしかなくなったとされ、要塞化していた織田徳川連合軍に攻めかかり、ズタボロに大敗しました。
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信長が派遣した別働隊は、徳川軍だけでなく、信長の馬廻衆(直属の部隊で歴戦の強者たちが揃っていた)も参加していたと言います。
それを指揮するだけでも大変でしょうに、大きな戦功を挙げ、さぞかし徳川家康も誇らしかったことでありましょう。
信康の切腹事件
ただし、たった一つだけ、忠次の頑張りをもってしても解決し切れなかった織田&徳川のトラブルもありました。
天正七年(1579年)の松平信康腹件です。
家康の長男・松平信康が織田信長からの命で切腹に追い込まれた――という事件ですね。
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当初、信長の疑いを晴らすべく、徳川家から織田家へ弁解に行ったうちの一人が忠次です。
しかし皆さんご存知の通り、信康は切腹を免れられず、母・築山殿も時を同じくして殺害されました。
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このことを家康はずっと覚えていて、後に忠次が「うちの倅にもう少し領地をもらえませんか」と言ってきたとき、「お前も息子が可愛いのか」とイヤミを言った……という話が伝わっています。
近年では「信康の切腹は家康の意思である」という説も有力になってきているので、この逸話の信憑性もあまり高くないのですが。もう一人の使者だった大久保忠世にはこういった話はありませんし。
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その後も家康の信頼は厚く、天正十六年(1588年)に隠居するまでは側近として働き続けています。
豊臣秀吉からも隠居所として京都の屋敷や、お世話役の女性や隠居料をもらっていました。
この時点だとまだ秀吉もボケてないですし、もしかすると石川数正を引き抜いたように、忠次も自らの陣営へ呼び寄せたかったのかもしれません。
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とはいえ、忠次は上記の通り、一族の人間が一向一揆側についたときでさえ家康の元を離れなかった人ですから、そのまま一生を終えています。
そして1596年(慶長元年)12月17日に死亡。
享年70。
徳川四天王の中で、家康の天下を一番見たかったのは、この方だったような気がしてなりません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
酒井忠次/wikipedia