豊臣秀長/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉を支えた偉大過ぎるNO.2豊臣秀長 その功績がワンダホー!

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歴史で「兄弟」とか「親戚」とかいう話になると、それだけでもう血生臭い単語が続くのは半ば決まったようなものですが、ごくごく稀に例外もいます。

おそらく日本でいえば、真っ先に豊臣秀吉豊臣秀長のことを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

「秀長が天正十九年(1591年)1月22日に亡くなってから秀吉の耄碌もとい暴走が始まった」とも言われますしね。

つまりそれだけ兄を実利的にも精神的にも支えていた、ということになるわけですが、具体的には一体何をやっていた人なのでしょうか。
密かに人気のある人なのでご存知の方も多そうですが、しばしお付き合いください。

 

15年ぶりの再会でも兄弟愛は消えておらず

彼らは3~4歳違いと当時にしては年の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したためか、幼少期のエピソードはあまりありません。

再会するのは秀吉がねねと結婚してからのことで、だいたい15年くらい後の話です。
こんなに離れていれば普通赤の他人状態になりそうなものですが、それでも秀長は兄の下に行ったというのですから、やはり2人は相性が良かったのでしょうね。

当初からそのつもりだったのか、秀長は秀吉の留守を預かる役を頻繁に務めました。

信長が浅井家を滅ぼした後、秀吉が長浜城(現・滋賀県長浜市)をもらって本格的に出世していくと、やはり城代などを引き受けています。
子飼いはいてもまだ城を任せるほどの人材がいなかった秀吉にとって、心強い味方だったことは予想がつきますね。

豊臣秀吉

もし兄の方が先に死んでいたら?そんなタラレバも面白いかもしれません/wikipediaより引用

 

戦国一の転職王・高虎とも相性バッチリ!

また、秀長自身もこの頃片腕といえる人物と出会っています。
戦国の転職王・藤堂高虎です。

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どんな人物だったのかは過去記事に譲るとしまして。
ともかく、二人とも教科書に載るような超有名人というわけではありませんが、もし「息の合った主従ランキング」なんてものを作るとしたら、確実にランクインするでしょうね。

この頃には信長の覚えもめでたかったらしく、北陸に釘付け状態だった秀吉の代わりに、織田家の総力を結集したといっても過言ではない戦・長島一向一揆にも参加しています。

温厚そのものと言われていた秀長の性格からすると少し意外な気もしますが、四の五の言わずきっちり代理を務めるというのは難しいものですから、彼の有能さがわかりますね。

 

病気の秀吉に代わり四国を平定す

その後も秀吉に付き従って中国攻めに参加し、秀吉が天下人になってからはより一層大きな役割を果たします。四国征伐の総大将です。
四国の覇者・長宗我部元親がやっと手に入れた四国を手放すことになってしまった戦ですが、実はこのとき秀吉は病気で現地に行くことができなかったのです。つまり、秀長の功績といっても過言ではありません。

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これは私見ですが、もし元親がいきなり秀吉と戦ったり話していたとしたら、とてもすぐに頭を下げる気分にはならなかったのではないでしょうか。秀長という穏やかな人物が現場の最高責任者だったからこそ、怒りや悔しさを引っ込める気になったのではないかと思います。

この頃が秀長の心身絶頂期で、その後は少しずつ体調を崩すことが増えて行きました。この時点で四十代半ばでしたから、現代人とそう変わりませんね。
しかし、大納言という位を授かってますます忙しくなる秀長には、湯治くらいには行けてもゆっくり休養することはできませんでした。ニーチャンちょっとは気を使ってやれよ。
九州征伐には参加しましたが、小田原征伐の頃にはもう長期の行軍には耐えられない状態になっていたようで、関東へは来ていません。意外ですね。

 

謀反人・豊臣秀次とも親交を温めていた

豊臣秀次との関係も良かったようで、彼が秀長の病気平癒祈願に直接神社へ行ったりしています。

兄とはいえ天下人から親戚、家臣まで本当に誰とでも仲良くできた人というのもちょっとめずらしいんじゃないでしょうか。

しかし激務が祟ったのか、秀長は快癒することなくこの世を去ることになります。享年51歳、当時の基準では若いとはいえませんが、まだまだやり残したこともあっただろうと思われます。

一説には、秀吉を困らせるため自ら自害した可能性も囁かれている豊臣秀次/wikipediaより引用

秀吉を困らせるため、命令されてもいないのに自害した可能性も囁かれている豊臣秀次/wikipediaより引用

その後秀吉がやったことといえば、秀次事件に朝鮮の役に秀頼の溺愛と、どれも悪影響を残したことばかりです。
秀次事件については真相がはっきりしていない面もありますが、妻子約四十人を処刑させたのは間違いなく秀吉ですからね。耄碌したというのもあるでしょうけども、やはり秀長が何かと気を回していたからこそ、彼の存命中はうまくいっていたのでしょう。

しかし、秀長一人がいなくなっただけで、呆気なく瓦解の始まった豊臣政権って組織としてどうだったのでしょうかね。

「俺はどうせ会社の歯車なんだ!」なんて悲観的になる人がたまにいますが、たった一人いなくなるだけで替えがきかず、泥舟のごとく沈むような体制もキツいです。

一つダイヤの歯車を一年365日使い続けるより、鉄の歯車をいくつか交代で使うほうがお互い安心できるのではないでしょうか。秀長と豊臣政権の関係を見ると、そう思います。

ダイヤだってやりようによってはあっけなく割れますから。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon link
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon link
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』( 豊臣秀長/wikipedia

 



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