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山崎の戦いで光秀がフルボッコにされた理由は本能寺からの流れでわかる

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偽情報を流しつつ、京都への道を急ぐ秀吉。
その後、「織田信孝の身が危ない」という情報を得た秀吉は、即座に姫路を出発して尼崎へ向かいます。

そして11日に同地で摂津の武将らと合流すると、12日には富田(現在の大阪府高槻市)に進み、ここで諸勢を集結して合戦の軍議を開きました。

結果、以下の3軍団&3方向に分かれて進軍することを決定。

・山手から羽柴秀長や黒田孝高たち

・中筋から高山右近や中川清秀たち

・川手から池田恒興や加藤光泰たち

光秀のいる京へと向かいます。

このあたりの判断力や行動力、洞察力を考えると、やはり羽柴秀吉という男がタダ者ではないことがよく理解できるでしょう。

晩年や創作でのイメージからどうしても低く評価されがちな秀吉ですが、こと山崎の戦いをめぐってはこれ以上ないほど恐ろしい才覚を発揮しています。

ちなみに、光秀方は10日の夜までに羽柴軍襲来の報を入手していたようで、11日からは洞ヶ峠(大阪府枚方市)を撤収して、急ぎ勝竜寺城(京都府長岡京市)付近で迎撃する体制を整えております。

同地にて軍議を開いたであろう光秀方は、羽柴軍の思惑と同様に合戦の舞台を山崎と定めました。
軍事・交通上の要衝であり、彼らが目をつけたのも当然と考えられています。

もっとも、合戦開始前の12日には、すでに両軍の足軽による小競り合いがあったようで、その結果として開戦時に山崎は秀吉方が確保していたようです。

 

明智、秀吉の各陣容は?

いよいよ13日は戦の本番、両軍が山崎の地で相まみえることになりました。

軍勢を整理しておきますと、明智軍は斎藤利光を筆頭とした計13,000ほど。
陣容は以下の通りです。

【明智軍】

◆山崎の先手勢5000
◆松田政近を筆頭とした山手の先手勢2000
◆右備2000
◆左備2000
◆光秀旗本が5000

◆計13,000

フロイスの分析によると、光秀の軍勢は8,000~10,000となっております。

一方の羽柴軍は計40,000ほど。
以下の通りの顔ぶれになっています。

【羽柴軍】

◆一番 高山右近4000
◆二番 中川清秀2500
◆三番 池田恒興5000
◆四番 丹羽長秀3000
◆五番 織田信孝4000
◆秀吉本隊20000

◆計40,000

この時点で両軍の差が絶対的であることは明らかですね。

しかも、秀吉軍は士気も高い。
長距離を駆け抜けた疲労はあるにせよ、光秀が頼ろうとした高山右近や中川清秀を味方に引き入れ、かつ信長の三男・織田信孝もおりました。

織田信孝は、四国攻めを予定していたところで本能寺の変が起き、単独では光秀に対抗できず、中国大返しからの秀吉に相乗りするようなカタチです。
本音を言えば柴田勝家と手を組みたかったのでしょうが、この場面では致し方ないところかもしれません。

光秀の失敗は、細川や筒井といった有力武将を味方にできなかったことだけではありませんでした。

秀吉方には【信長の仇を討つ】という大義名分が存在。
一方、光秀側は、そっくりそのまま【主君殺し】という負い目となったのです。

 

天王山を制する者が山崎の戦いを制する?

開戦前から不利であったことは、光秀当人も重々承知していたでしょう。

しかし、戦はフタを開けるまでわからないもの。
一般的に両軍が本格的にぶつかったとされる13日以前から小競り合いは始まっておりました。

――山崎の戦い始まる――

光秀が設置した本陣は、明智方の勝龍寺城から南へわずか1.5kmの距離。
さらに南へ数百メートル進んだところが、今日こんにち【山崎古戦場跡】として記されるポイントであり、当時の合戦中心地付近だと目されている。

両軍が注目したのは、そこからさらに南西約3~4kmの重要地点だ。

このヤマを制する者が山崎の戦いを制する――。
として現代でも知られる【天王山】である。

※左から天王山・山崎古戦場跡・光秀本陣・勝竜寺城

首尾よく天王山を押さえた秀吉軍は、自らは山麓さらに南方の平野(一説には宝積寺)に本陣を構え、静かに明智軍の動向を見守っていた。

秀吉が優勢であることは間違いない。
が、主力部隊が、備中高松城から約230kmもの行程を進軍しており、溜まった疲労は少しでも癒やすに限る。

そもそも明智に対して3~4倍もの大軍であり、自ら仕掛ける手はない。

逆に言えば、そこが光秀に残された僅かな勝機だったと言えようか。

不利な立場におかれた明智方は先に動いた。
動かずにいた羽柴勢に挑発を繰り返し、その誘いに応じたのが高山右近。

後にフロイスに対して「私が先陣を切って突撃した!」と語っていたというが、戦はにわかに加熱し始め、13日の夕方頃に両軍が全力で激突した。

秀吉軍で戦闘の中心になったのは摂津衆であった。
右翼の池田勢が速やかに進出し、中でも加藤光泰が活躍すると、中央の中川勢や高山勢および左翼の山の手側でも、終始、秀吉軍が有利に戦を進める。

少ないながら明智勢も奮戦を見せた。
が、急ごしらえの軍勢であったことや、無理やり光秀に従わされていた近江衆などの戦意は低く、同日中には完全に勝敗が決する。

――秀吉方の圧勝、明智方の完敗だった――

※補足:一般的に天王山の確保が勝因だとされておりますが、良質な史料に記述がないことから、秀吉による「喧伝」の一種だという見方もあります

かくして秀吉方に壊滅的打撃を与えられ、敗走を始めた明智軍。

光秀は野戦を諦め一旦は勝竜寺城に入ったものの、城を守ることは到底不可能なことを知り、夜陰に乗じて坂本城へと逃れようと画策します。

勝竜寺城

現代の地図で
【勝竜寺城→坂本城】
確認してみますと。

距離27~29kmで、徒歩6時間前後ってところですね。
小型馬(ポニー)でも時速30~40kmは出せるそうなので、当時の道の状態を勘案しても60~90分ぐらいで着く距離でしょうか。

しかし、少ない手勢を連れた逃亡の最中です。

危険なのは道程そのもの。
山科の小栗栖(現在の京都市山科区)に入ったところで、光秀は土民の襲撃を受けて負傷します。

そして事ここに至って観念したのでしょう。
切腹の後、家臣に介錯をさせ、果てたと考えられています。

アテにしていた武将にそっぽを向かれ、圧倒的不利な戦に挑み、最後は逃げまどううちに刺されて亡くなった光秀。

【謀反の見込みが甘すぎる】
と判断されたのか、あまりの「あっけなさ」ゆえなのか、その後の光秀は日本人好みの判官贔屓ほうがんびいきの対象にさえなりませんでした。

それでも、彼の「三日天下」における一連の行動はあまりにも物悲しく、個人的には同情を抱かずにはいられません。
2019年大河ドラマ『麒麟がくる』では、この山崎の戦いや光秀の最期は要注目です。

 

坂本の炎上で明智勢の命運は尽きる…

山崎の戦いにて光秀勢が敗北したという知らせは、数時間後、明智勢の支配していた安土の地にも届いたようです。

同地を守っていた明智秀満は安土から撤収し、本拠である坂本城へと向かいました。

明智秀満(明智左馬助光春)/wikipediaより引用

秀満が安土城に火を放ったという言い伝えもあります。
が、フロイスによれば火を放ったのは織田信雄と指摘しており、真相は不明です。

また、この際の撤退に関連して、秀満が琵琶湖を渡って坂本へ落ち延びた「明智左之助の湖水渡」という伝説が誕生しました。

琵琶湖を渡ったかどうか……はともかく坂本城にたどり着いた秀満は、城内に逃亡者が多いことから籠城戦は不可能であると悟り、光秀の妻子や自分の妻子を殺すと、坂本城に火をはなった後に自刃して果てたと伝わっています。

こうして隆盛を極めた明智家は完全に滅亡。
光秀の首は本能寺で晒されることになりました。

さらに後日17日には、それまで潜伏していた重臣の斎藤利三が捕らえられ、洛中引き回しの上で斬首にされます。
利光と光秀は、見せしめとして亡骸を粟田口に晒された後、24日には二人の首塚が築かれました。

山崎の戦による勝利で、秀吉は織田家宿老の中で一段と地位を高めることとなり、後の天下統一へと繋がっていくことになります。

清州会議でのヤリトリは、実は秀吉の一方的勝利ではなかった――という見方もありますが、個人的に秀吉の圧倒的能力は疑うべくもなく、他の諸将も同じようなことを感じたのではないでしょうか。

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山崎の戦いを描いた記録とは?

最後に、【山崎の戦い】やその前後における光秀の動静を描いた記録史料を整理して、記事の締めくくりとさせてください。

まず、秀吉が大村由己おおむらゆうこという僧に書かせた『惟任退治記(謀反記)』という史料に、山崎の戦いをめぐる記載が存在しています。
『天正記』と呼ばれる秀吉の活躍をまとめた軍記物を構成している史料でもあり、織田信長の事蹟を詳しく記し、彼の葬儀までの様子がまとめられています。

同書では光秀の滅亡を「因果応報」と捉えています。

合戦の記述は「即時追崩悉皆敗北(即時に追撃するとことごとくが崩れ、(明智方が)敗北した)」と簡略に述べられているのが特徴。
ただし、そもそも『天正記』自体が「秀吉アゲ」を目的に記されているという点を見逃すことはできず、史料的な価値には疑問符がつきます。

また、同じく大村由己が記したいくつかの文書にも合戦の記載がみられますが、内容はほぼ同一です。

次に、戦国から江戸の時代に活動し、儒学者として知られた小瀬甫庵が記した『太閤記』という史料にも記述があります。

内容が詳細に描かれている一方で、たとえば13日早朝に天王山の争奪戦があったという記述は堀尾吉晴(甫庵の旧主)の戦功を誇張したもので、他書との喰い違いがみられる点も。
当主の功績を「盛る」というのは史料あるあるなので、読む側もよく心得ておく必要アリです。

大村由己像/photo by TYOME98 wikipediaより引用

また、江戸時代も中盤の元禄期に記された作者不詳の軍記物『明智軍記』の最後は「城州山崎合戦事」で、光秀の心境を中心に述べています。

同書はだいぶ時代を下ってから書かれた軍記物であり史料的価値は高くないですが、光秀本人に着目し、時間的経過を追った詳細な記録であるという一面は無視できないでしょう。

他にも、この記事で何度も名前を挙げてきた光秀の友人・吉田兼見が記した『兼見卿記』には、山崎での鉄砲音を聞いているという事実や、落ち延びていく武士たちの様子などが書かれています。
同書は戦国でも貴重な一次史料であり、公卿という立場にいたことから様々な武将との交流もあったようで、史料価値は高いと見るべきです。

ただし、裏切り者となってしまった光秀との関わりを懸念して、兼見自身の立場を悪化させないように書き直した形跡もみられます。
本能寺の変直後は、何度も顔を合わせ将来を語り合ったことと推測でき、兼見にとってもこの書き直しはさぞかし無念であったことでしょう。

また、合戦に参加した武将の家譜類にも多くの記事が残っています。

しかし、史料という観点では肝心の明智家や光秀自身が後世に多くの文書を残していないため、謎に包まれている箇所も少なくありません。

「敗者の歴史は残らない」

秀吉との差を考えるとその真理には抗えないのでしょう。

なお、大河ドラマ『麒麟がくる』のキャスト一覧が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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文:とーじん

【参考】
『戦国武将合戦事典』峰岸純夫・片桐昭彦編(→amazon link
『織田信長家臣人名事典』谷口克広(→amazon link
明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』谷口研語(→amazon link

 



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