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豊臣家

関ヶ原【第二の裏切り者達】と戦った大谷吉継と平塚為広に涙がこぼれらぁ!

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日本人なら知らぬ人はいないであろう関が原の戦い。

わずか一日で決着が着いてしまったため、
徳川家康の策略どおりに石田三成が挙兵して、東軍の計算どおりにやられてしまった】
なんて印象をお持ちの方も多いかもしれません。

しかし、前哨戦【杭瀬川の戦い】もそうでしたが、関が原に布陣した時点では西軍のほうが有利でした。

杭瀬川の戦い【関ヶ原前哨戦】は西軍の勝利だった!家康&三成ガクブル

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南宮山をはじめ主要な高所は西軍がすでに布陣。
対する家康本陣を含めた東軍は低いところばかりでした。

そして東軍はほぼ一直線の陣形でしたが、西軍はそれを取り囲むような配置になっていたのです。
西軍がきちんと連携できて、前後と横から包み込むような進軍をしていたら、まったく違う結果になっていた――そんな見方ができます。

これは明治時代の日本陸軍の先生だったクレメンス・メッケルというドイツの軍人も断言したことがあるそうです(まあ司馬遼太郎大先生あたりの創作の疑いも濃厚らしいのですが)。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

しかし現実にはご存知の通り、小早川秀秋とそれに呼応した第二の裏切り者たちのどんでん返しによって西軍は大敗してしまいます。

前置きが長くなりました。
今回の主役はその裏切り者たちと戦った西軍の二人です。

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原で西軍の大谷吉継と平塚為広が戦死しました。

大谷吉継は三成に
「アンタじゃ家康に勝てないんだから、戦はやめておけ」
とさんざん言っていたのですが、受け入れられず参陣しています。

吉継と為広の2人は、秀秋が東軍参戦だと見越していて、最初から小早川隊に最も近い位置に布陣していました。
貧乏くじをひいたわけですが、逆に「おとこ」の美学を感じさせますよね。

彼らの逸話を知っている人も一緒にウルウルしましょう!

 

裏切り者の小早川にも深~い事情が

もともと小早川秀秋は、秀吉の奥さん・ねねの甥っ子です。
秀吉の愛息・豊臣秀頼が生まれるまでは豊臣秀俊とよとみひでとしを名乗っていました。将来、豊臣家の重きをなす人間として期待されていたんですな。

しかし、秀頼の誕生によって秀吉の態度が急変。

小早川隆景毛利元就の三男)に子供がいないっていうから、お前行ってくれない?」

って、なんというムチャ振りでしょうか。
さすが天下の秀吉。
留まるところを知りません。

しかし、そのご意向に逆らえない秀俊は命令に従って小早川家に入り、名前も秀秋と改めます。

むろん秀吉の縁者であることには変わりません。
関が原の戦いでは西軍で一番多く兵を率いていて、主力ともいえる状態でした。

それが吉継と為広の運命を決めることになりました。

一説には、三成もこの裏切りを予測していたとも言われています。

こっそり家康と連絡を取っていた秀秋はよほど挙動不審だったらしく、三成は「この戦が終わったら、あなたを関白にするし、加増もしますよ」(だから妙なマネすんじゃねえぞ)なんてエサをぶら下げています。

結局、秀秋は東軍の誘いにのるワケですが……。

 

午前8時に合戦スタート!当初は西軍優勢だった

関が原の戦い本戦が始まったのは、午前8時ごろからといわれています。

秀秋は、お昼近くになってもハッキリとした態度をとりませんでした。
彼の目には西軍が有利に見えましたし、その時点では実際に西軍に勢いがあったのです。

単純な兵の数なら西軍のほうが多いですし、前日【杭瀬川の戦い】がうまくいっていたこともあり、士気は高かったのでしょう。

しかし、三成の先鋒として前線に出ていた島左近が負傷により一時撤退してから、徐々に雲行きが怪しくなってきます。
それでもグズグズする秀秋は、矢継ぎ早に届く家康からの催促に耐えかね、ついに正午過ぎに西軍への攻撃を決意しました。

しびれを切らした家康に鉄砲を撃ちかけられた――という説も最近では
「戦場でンなもん聞こえるんかいな?」
と疑問視されています。

「鉄砲じゃなくて大砲だったんじゃ?」
と、これならまだ理解できますね。

ちなみにこのとき、「裏切るとか武士としてありえんわ! もうアンタにはついていけない!!」と逆に秀秋を裏切った松野重元という武将もいました。

松野重元/wikipediaより引用

こうなったら戦死かお家取潰しであろう……と思いきや、その姿勢が「忠義者」としてかえって褒められ、次は田中吉政に仕官することとなります。
あまり知られてない話ですが、面白い展開ですね。

 

大谷吉継も平塚為広も第二の裏切りに耐えきれず

予想通り裏切った秀秋に対し、まず先鋒として応戦したのが平塚為広です。

平塚為広は秀吉の護衛をしたこともある力自慢の武将でしたが、所領は少なく、このときの動員人数も数百人ほどでした。
ですが大谷隊と連携・奮戦した甲斐あり、秀秋の先鋒隊を数回は押し返すことに成功します。

しかし、ここで第二の裏切りが起こったもんだから、さぁ大変。

秀秋の裏切りを警戒するために配置されていた

・朽木元綱
・赤座直保
・小川祐忠
脇坂安治

などの部隊も、西軍に向かって突撃を開始したのです。

その数、小早川隊と合わせて2万前後(諸説アリ)。
これにはさすがの平塚隊も耐え切れず、部隊は壊滅してしまいます。

為広は最後の最後まで戦いますが、雲霞うんかの如くわき続ける敵兵を見て覚悟を決め、急いで辞世の句を認めます。

そして近くにいた兵に敵将の首と手紙を託し
「大谷殿へ届けてくれ」
と言い残して壮絶な討死にを遂げました。

討たれるその瞬間まで得意の大薙刀を振るっていたのでしょう。

 

平安時代かよ!まさかの辞世の句の交換日記エピソード!

なだれ込む二重の裏切り者――これに対する大谷吉継との間で戦闘がはじまりました。

このとき、秀秋の見張り役として家康から派遣されていた奥平貞治という人物が致命傷を負います。
数で勝る部隊の、しかも前線に出ていたわけでもなさそうな立場の人間が、その日のうちに死ぬような傷を負ったというのですから、大谷・平塚両隊の奮闘振りが窺えますね。

しかしやはり多勢に無勢。
攻めるも退くもままならなくなった吉継の元に、為広からの使者が到着します。

手紙には辞世の句が書かれていました。

「君がためすつる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」
(意訳:主君や友誼を結んだ君のためになら、命を捨てるのも悪くない。この世で永遠に生きられるわけでもないのだから)

文字通り命を惜しまず、爽やかささえ感じるこの句を見て、吉継も覚悟を決めました。

返歌として次のように詠んでいます。

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
(意訳:もしあの世でも縁があるとしたら、死後の世界の入り口で待っていてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから)

そしてギリギリまで戦った後、吉継は側近に介錯を命じて自害したのです。
にしても歌のやりとりとか結構、二人とも余裕ありますよね……。

こうして堰き止め役がいなくなった西軍は、「今こそ好機!」とばかりに動き出した家康本隊と裏切り者たちとに挟撃され、あっけなく壊滅してしまうのでした。

圧倒的不利な状況でも最後まで戦った吉継と為広は、まさに武士の鑑ともいえるでしょう。

ちなみに、ホンモノの裏切り者たち四名は、事前にきちんと内通をしていた脇坂安治以外は戦功とされず、むしろ忌み嫌われるように減封(石高減)や改易(お家取潰し)の憂き目に遭っています。

・朽木元綱→減封
・赤座直保→改易(後に前田家へ)
・小川祐忠→改易
・脇坂安治→所領安堵

東西どちらが勝つかわからない状態で、旗幟鮮明にしておくって難しいですが、結局、こうなるんだったらしておくべきなんですよね……。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)』(→amazon link

※平塚為広の奮闘をナマで感じたいなら関ケ原古戦場へ!
以下の記事で詳しく案内されています

 



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