『秀吉の交渉人 キリシタン大名 小西行長 (メディアワークス文庫)』

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【豊臣戦国譚】小西行長が秀吉にウソをつきながら出世できたのはなぜ?

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堺の商人出身ながらも、豊臣秀吉に仕え立身出世。
関ヶ原の戦いで敗れたキリシタン大名――波乱万丈な生涯を遂げたのが小西行長(1558~1600年)です。

華々しいイメージに反して、実は具体的なことはよくわっておらず、謎が多い。
それが、近年の研究成果により、徐々にその実像が明らかになってきました。

なぜ商人の出身ながら、行長は出世できたのか?
最大の謎を解くカギは、実は姻戚関係にありました。

※TOP画像『秀吉の交渉人 キリシタン大名 小西行長 (メディアワークス文庫)』永田 ガラ (著)(→amazon

 

キリシタン&商人の立場をフル活用した小西行長

行長の祖先は、父の小西立佐(小西隆佐)までしかわかりません。

立佐の際立った動きは、佐日比屋氏という貿易商との間で何重にも結んだ姻戚関係でしょう。
大坂・堺で活躍する佐日比屋氏は、九州と堺の海上輸送ルートを掌握しており、潤沢な資金を持っていました。

当時の堺は商業都市であり、外国人が行き来する国際都市でもありました。

後に小西行長は海上輸送を任されて注目を浴びますが、その発端は日比屋氏との「コネ」を利用したものだったんですね。

さらに日比屋氏と小西氏はともにキリシタンの一家でした。
もちろん、宣教師とのつながりは、信仰心から出るところもあったでしょうが、行長はキリスト教を「利用」して、キリシタンのみに独占されていた貿易ルートを確保したようです。

目の付け所がちがいます。
行長は頭の良い人物だったのでしょう。

そしてそれは商業・お金の流れ(バランス)を重要視していた豊臣秀吉にとっても魅力的に映る能力でありました。

 

秀吉に気に入られぐんぐん出世

行長は人脈とノウハウとを発揮し、まずは青年期に宇喜多氏に仕えました。

そして詳細は不明ながら、いつしか秀吉に認められるようになり、天正10年(1582年)、25歳の時に小豆島の管理を任されました。

行長自身もこのときは強運を持っていたのでしょう。
天正10年(1582年)と言えば、本能寺の変があった年です。

直後に、中国大返しから山崎の戦い明智光秀に勝利した――激動の一年だったワケです。

そんな秀吉に引っ張られるようにして3年後の1585年、行長28歳のとき。
秀吉の紀伊・四国攻めに水軍で参戦し、宣教師のルイス・フロイスに「水軍司令長官」と評されました。

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その後も兵糧輸送を任されたり、水軍として活躍することが多いだけでなく、商人という出自を買われてか、朝鮮との外交交渉にあたるなど、秀吉から次々と任務を与えられ、出世を果たします。
商人だけでなく、キリシタンとの繋がりもフル活用して確固たる地位を築いていったのです。

しかし、そんな行長に衝撃の出来事が起きてしまいます。

 

犬猿の仲だった清正と肥後を分け合う形で

天正15年(1587年)。
豊臣秀吉は伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を出しました。

キリスト教の弾圧を命じたのです。

これまで蜜月で上り詰めてきた行長にとっては由々しき事態。
信仰心と同時に利権も絡んでおり、おいそれと手を切ることはできません。

どう対処したのか?

なんと所領に滞在していた宣教師を一度退去させたように見せかけて、かくまったのです。
秀吉への「反抗」ともとれます。

非常に厄介な状態でした。
貿易を独占していたイエズス会とのつながりは、行長にとって生命線。
表向きは秀吉に服従しながらも、実際はキリシタンをかくまうことで、貿易時のイエズス会宣教師の仲介を確保したのです。

こうした綱渡りの努力は実を結びました。
肥後の半分12万石を与えられたのです。

しかし、これまた単純に喜べる話でもなく、肥後の残り半分の知行地には、行長と犬猿の仲だった加藤清正が赴任してくるのでした。

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勘の良い方でしたらもうピンと来られたでしょうか。

秀吉が心密かに抱いていたであろう朝鮮出兵。
小西行長は、加藤清正と共にその先鋒として大活躍を果たします。

肥後(熊本県)という血に置かれたのは、前線基地としての赴任地だったのですね。

 

大失態が秀吉にバレたにもかかわらず

朝鮮出兵の先鋒として、行長はさらなる活躍をします。

1592年、清正と共に朝鮮半島の最前線まで軍を進めるのです。

が、戦況の膠着、停滞に伴い、これ以上の戦線維持は不可能と判断。
中国・明の将軍と密約をし、和平交渉を進めてしまいます。むろん秀吉に断りなくです。

秀吉の条件は、中国・明の降伏という強硬なものでしたが、それが現実的ではないと判断したからでしょう。

この事実を知った秀吉は激怒し、1597年、2度めの朝鮮出兵を命じます。
行長はこの「大失態」にもかかわらず、周囲の執り成しなどもあって、秀吉に罰せられた形跡がありません。

ちょっとした手違いで改易に処された他の大名や武将を考えるとフシギでなりませんが、もしかしたら朝鮮半島での活躍や、商人、水軍としての実力を引き続き重視されていたからかもしれません。

そして二度目の朝鮮出兵は、秀吉の死去に伴い中断され、ようやく終焉を迎えました。

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秀吉の死後、徳川家康石田三成との二つに分かれた天下分け目の関ヶ原が勃発。
西軍についた行長は、東軍の寺沢広高隊に敗北し、山中でとらえられ、三成らとともに京都の六条河原で斬首されました。

キリシタンの教義に反するため、自害を拒否したといわれています。

キリシタンを「利用」して出世の足掛かりとしたしたたかなキリシタン大名・小西行長。
最期は篤い信仰心を抱き、命を全うするのでした。

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文:佐久間 ふう

【参考】
『秀吉の交渉人 キリシタン大名 小西行長 (メディアワークス文庫)』(→amazon
『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像 (史料で読む戦国史)』(→amazon

 



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