日本二十六聖人記念碑「昇天のいのり」/wikipediaより引用

豊臣家

日本二十六聖人とサン・フェリペ号事件 なぜ秀吉はキリスト教を弾圧した?

慶長元年(1597年)12月19日は、長崎で二十六人の日本人キリシタンが処刑された日です。

命令を下したのは豊臣秀吉

犠牲になった人々は”日本二十六聖人”として現代にまで伝えられ、その一方、晩年を控えて耄碌した秀吉の老害や残虐性が語られたりします。

しかし、事はそう単純でもありません。

直前にサン・フェリペ号事件という一件があり、秀吉にも、強硬な姿勢に出なければならない理由がありました。

 

国土侵略ならびに奴隷売買への警戒

封建主義の江戸幕府が「神のもとでは、みな平等」というキリスト教を邪魔扱いするのはわかります。

ではなぜ、豊臣秀吉まで警戒したのか?

理由は主に2つ。

・キリスト教の布教に伴う国土侵略への警戒
・日本人の奴隷貿易への警戒

国土侵略というのは文字通り。
スペインとポルトガルは1494年に結んだ【トルデシリャス条約】で世界を半分ずつ領有する取り決めを交わしており、布教を基点として侵略をするこの二国に警戒心を抱いておりました。

奴隷貿易とは、これまた文字通り、日本人の人身売買を行っていたんですね。
主に戦争で獲得した人々を九州からマカオへ運び、そこから世界のどこかへ売られていきました。

戦国時代ですから日本中の各地でこうした人攫い&売買は行われ、秀吉自身も携わったことは明白でしたが、すでに天下統一も成し遂げた状態で、それを放置するのは統治者としては許せるワケはありません。

こうした国防上の懸念から1587年に【バテレン追放令】を出して宣教師たちの布教を禁じ、しばらくはナァナァでやり過ごしていたところ、慶長元年(1596年)に大事件が起きました。

それが【サン・フェリペ号事件】です。

 

サン・フェリペ号事件

慶長元年(1596年)の夏、マニラからノビスパニア(メキシコ)へ向かうスペイン船が嵐に遭遇。
土佐(高知県)の浦戸に漂着しました。

長宗我部元親の要請を受け、豊臣政権の五奉行である増田長盛が取調べを行っていたところ、水先案内のフランシスコ・デ・オランディアが、こんな風にガンギレします。

「てめぇら、いい加減にしろ! オレら、スペインは強ぇんだ! 見てみろ、この地図をよ。世界中に領土があり、それに引き換え、お前らハポンなんてこんなゴミみたいな存在じゃねーか! さっさと積み荷を返しやがれ! じゃないと攻め込むぞ、おぉ!」

ある程度は、売り言葉に買い言葉という一面もあったでしょう。

しかし、それで情状酌量してやるほど秀吉はお人好しではありません。

かねてから【宣教師→布教→植民地化】というスペイン・ポルトガルのやり口に危機感を抱いていた秀吉は、この一件でその危険性を再確認。
ただちに取締を始めることにしたのです。

それが日本二十六聖人へと繋がっていくのです。

 

三成が京都周辺で捕縛 二十六聖人のうち二十四人が……

秀吉はサン・フェリペ号の荷物を押収すると、すぐさま宣教師の捕縛を命じました。

しかも、その対象は、船に乗っていた者たちだけでなく京都や大坂まで拡大。
石田三成が実行し、このとき捕らえられたのが”二十六聖人”のうちの二十四人です。

日本人の信者は親子または兄弟など血縁者が多く、またスペイン人やポルトガル人、メキシコ人の修道会員も含まれていました。

彼らは京都で左耳を切り落とされた上で市中引き回し(さらし者)にされ、長崎で処刑されることになります。

なぜわざわざ長崎まで行かせたのか?
というと、当時の領主だった大村純忠という人が日本初のキリシタン大名になっており、長崎の地をイエズス会(ザビエルが設立した布教グループ)に寄進していたからです。

見せしめにはもってこいの土地だというわけですね。

 

「ゴルゴダの丘に似ている」

ちなみに残りの二人は、道中、彼らの世話役になった日本人の宣教師達でした。

内訳はフランシスコ会員が6名、日本人のイエズス会修道士が3名、日本人信徒17名。

彼らのいずれも信仰のために命を奪われることを拒まず、刑場となった西坂の丘について「イエス=キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ている」として喜んだそうです。

こうして彼らは磔刑に処されました。
この処刑法は、刑を執行するほうもシンドイのですが、まぁ、何というか……エグイ処刑法の一つです。

西洋と東洋では、やり方が違うので直接の死因も異なるようです。
できるだけグロい表現を避けて説明しますと、西洋式だと窒息死、東洋式だと失血死を起こすようなやり方というのが正しいでしょうか。

詳細が伝わっていなかったのか。
そういう細かいことを気にしないのか。

ルイス・フロイスなど処刑を免れた宣教師達によって、殉教者達の存在は国内よりもヨーロッパで広く知られることになりました。

そして265年後の文久元年(1862年)、ときの教皇・ピウス9世によって列聖され、聖人として扱われるようになって現在に至ります。

ついでですので、この「列聖」と、その前段階である「列福」を確認しておきましょう。

 

列聖された”聖人” 列福された”福者”

どちらも「(キリスト教的な意味で)素晴らしい行いをした」とみなされる人が受けるもので、列聖された人を”聖人”、列福された人を”福者”といいます。

当人が亡くなった後に行跡が調査され、何十年何百年もかけて審査されるため、後世の人間が
「昔々、(キリスト教的な意味で)こういう素晴らしい人がいたんですよ」
と語り継ぐための制度というのが正しいような気がします。

亡くなった直後だと、世間から「いやいや、そいつはこんな悪いこともしてますよ!」という意見もたまに出てくるんだそうです。

なのでマザー・テレサやヨハネ・パウロ2世(先々代の教皇)のように、誰の目からも明らかに「素晴らしい」という場合はかなり短縮されるみたいですね。

通常はジャンヌ・ダルクのように死後何百年も経ってから聖人になるケースのほうが多い。
多分この二人は聖人として認められるのももっと早いでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
『戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略 (中公新書)』(→amazon
日本大百科全書
日本二十六聖人/Wikipedia

 



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