画・富永商太

豊臣家

石田三成~日本一の嫌われ者を再評価! 豊臣を背負った忠臣41年の生涯

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三成は和睦交渉と同時に、朝鮮へ再度渡り、「倭城」と呼ばれる要害の築城、朝鮮での在番体制の整備等をこなさねばならないのでした。

しかも朝鮮半島の陣中において、島津義弘の二男・島津久保が没したため、島津家に後継者問題が持ち上がりました。

三成はこの処理にも関わらねばなりません。島津家に、反豊臣政権的な後継者が据えられることを、警戒しなくてはならなかったのです。

同時並行してマルチタスクをこなす。

その働きぶり、四百年後に史実を辿っている私ですら心配になるほどです。

 

秀次事件の衝撃

その頃、豊臣政権内には新たな問題が持ち上がっていました。

秀吉は結局朝鮮半島に渡海しないまま「唐入り」が終わろうとしています。これが新たな問題の火種となるのです。

秀吉は渡海を前提として、留守を守ることになる甥で関白の秀次に、権限を委譲しつつありました。

太閤と関白で日本を分割し、支配する体制になりつつあったのですが、秀吉は秀次の統治ぶりを厳しく叱る等して、両者の間に緊張感が生まれることになります。

同時に、秀次は秀吉からのあまりに大きな期待に、押しつぶされるようなプレッシャーも感じていたことでしょう。

この間、三成は島津領・佐竹領、そして蒲生氏郷が死去した蒲生領等、各地の検地を進めていました。前述の島津家の後嗣問題への関与は続いています。

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日明和平交渉も継続中。
しかし、これは前提に無理がありすぎまして、文禄5年(1596年)に破綻してしまいます。

そんな中、おそるべき事件が起こります。

文禄4年(1595年)7月15日。高野山で関白の豊臣秀次切腹してしまったのです。

しかも事件に連座して、関係者が大量に処断されました。

秀次の残された妻子(最上義光の娘・駒姫も含む)も、まとめて処刑されてしまいます。

これに三成が立ち会ったとされています。幼子が母の胸から引き剥がされて刺し殺され、女性たちが斬首されていく光景を、一体どんな気持ちで見守ったのでしょうか。

従来、秀次はその悪逆ぶりや謀叛を企てたことから、切腹を命じられたのだとされていました。

しかし近年では、無実を証明する、あるいは精神的に耐えきれずに自ら切腹したとされるようになりました。

その事実を隠蔽するため、「殺生関白」という不名誉な名がつけられ、その妻子を見せしめのように殺すという隠蔽工作が行われたのです。

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ただでさえ親族、特に男子が少ない豊臣政権。秀次とその息子が生きていたら、どうなっていたことでしょうか。

想定外の事件により、滅亡への一歩を踏み出してしまった豊臣政権。

三成が豊臣家をなんとしても存続させたいのであれば、関ヶ原より前に尽力することがあったのかもしれません。

いや、それは歴史を知る現代人の言葉で、当時の彼にしてみれば不可抗力でしかありませんね……。

 

黄昏の豊臣政権

秀次事件のあと、三成は加増されます。

秀次の知行のうち、近江7万石が代官地に。そして近江佐和山19万4千石の所領が与えられたのです。

また三成は、秀次の家臣団を自らの家臣団の列に加え、更には増田長盛と共に京都所司代に任命さています。

大名としての三成は、領民に細やかな指示を出し、善政を敷いたとされています。多忙な三成に代わって、嶋左近清興らが領国支配にあたりました。

かくして三成は豊臣政権の屋台骨として、欠かせない存在になっていきます。

前述の通り、明との和睦交渉は破綻してしまいました。

そして失敗することは目に見えている朝鮮への再派兵が決まります。

造船そして伏見城築城と、三成はまだまだ働き続けねばなりません。伏見城の普請の際に、三成が真田信之とやりとりした書状からは、彼が病気にかかったことがわかります。これだけ働いていたらそれも無理のないところでしょう。

慶長2年(1597年)、朝鮮への再派兵が始まりました。

総大将は、豊臣一門の若き貴公子・小早川秀秋。今回の派兵は明の征服ではなく、朝鮮半島の領土切り取りを目的としたものでした。

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三成ら政権中枢にいる奉行は日本にとどまり、渡海した目付集が現地から戦況を報告するという体制です。

日本にいて現地の状況を知らない秀吉や奉行たちが、無責任に戦場へ命令してくるという状況は、確実に軋轢を生んだことでしょう。

「戦闘は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」

まさにそんな状況だったはず。

秀吉政権そのものに冷たい目線を向ける者もいましたが、恩義があってそうはできない者もいます。

彼らの憎しみの矛先は、三成へと向かうわけです。

実のところ三成は、戦況を冷ややかに、悲観的にみていました。

政権としての計画では、実力で朝鮮半島に領土を獲得し、そこに九州大名を転封、空いた九州に毛利や宇喜多を転封するという構想を練っていました。

こうした計画を不安がる輝元に対して、三成は「そんなことにはならないだろう」と見通しを述べているのです。

政権中枢の実力者である三成すら、正面切って無謀な計画に異議を唱えられない異常な状況でした。

 

秀吉の死と三成の失脚

慶長3年(1598年)8月。問題山積の中、秀吉が世を去りました。

秀吉というカリスマを失い、餓狼の中に置き去りにされた赤ん坊のような状況に陥った豊臣政権。狼が舌なめずりをしている中で、三成はどうすべきでしょうか。

もしアナタが三成であれば、どのような選択が最善であったでしょう?

秀吉とて、死後のことを考えていなかったわけではありません。
彼は遺言を残していました。

後事を託されたのは、著名な五大老と五奉行です。

五大老
徳川家康
前田利家
・毛利輝元
・上杉景勝
宇喜多秀家

五奉行
・前田玄以
長束正家
・増田長盛
・石田三成
浅野長政

奉行の一人として、政権運営を担当することになった三成。秀吉の死は秘され、しばらくの間五奉行は、秀吉の命令という形で政務を行いました。

そして三成らは、山積みの課題を消化していきます。

まずはともかく朝鮮半島からの撤兵および和睦交渉。秀吉が亡くなる前から朝鮮軍は反転攻勢を開始しており、撤兵は難しいものでした。

三成は10月に九州へ向かい、撤兵指揮を行います。

その二ヶ月後の12月には再度大坂に戻り、政権へ復帰。撤兵が終わってからも問題は続きます。

不平不満を抱えた大名たち相手の論功行賞や大名領の再編成をせねばなりません。無謀な唐入りで、大名たちの不平不満は頂点に達しています。

こんな状況で三成が無事に政務を行えるはずもなかったのです。

「五大老・五奉行」制度は、動乱の中で機能してはいたものの、危ういパワーバランスの上に築かれたものでした。

しかも慶長4年(1599年)はじめには、大老の一人である前田利家が死去。

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この直後、彼を追い込む有名な事件が起きます。

七将(加藤清正福島正則細川忠興・浅野幸長・黒田長政蜂須賀家政藤堂高虎)に襲撃されたのです。※家康書状に記された7名で、この他に池田輝政・加藤嘉明という説も

三成は伏見城の治部少丸に逃げ込み、難を逃れました。家康の屋敷に逃げ込んだという説は、史実ではありません。

近年、この襲撃事件は三成が家康暗殺を企んでいたことが前段としてあったとされる史料が見つかりました。

この史料を取り入れたのが、2016年大河ドラマ『真田丸』です。

結果、三成はこの事件の処遇として、佐和山城への隠退を余儀なくされてしまいます。

粉骨砕身して豊臣に尽くしてきたのに、政権から追放されてしまったのです。

凄まじい無念さであったことでしょう。

果たして三成はここからどうやって、再び豊臣を盛りたてようとしたのでしょうか……。

 

会津へ向かう家康、三奉行のクーデター

慶長5年(1600年)、秀吉の死からまだ二年も経ていないにも関わらず、家康は次なる天下人として力をつけていました。

この年、浮上したのが上杉景勝の上洛問題です。

上杉家は慶長3年(1598年)の時点で、越後から会津へと国替えを命じられていました。
しかし景勝はすぐに会津には向かわず、上方にとどまり大老の一人として政権運営の一端を担っていたのです。

三成隠退後、景勝は直江兼続とともに会津に向かいました。そして新たな領国で支配を固めます。

その矢先のことでした。

「景勝謀叛の恐れあり!」

上杉家を退去した藤田信吉から徳川側に一報がもたらされるのです。

ここで直江兼続が長い手紙(直江状)で徳川を挑発したか、してないか。その真偽は実は不明ながら、家康にとってみれば大老を排除する絶好の口実になることは確かです。

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景勝と三成が連携しているという噂もありましたが、本当かどうか、確証はありません。フィクションではその方が面白いから、よく採用される説ではあります。

奉行たちは、家康の意見に唯々諾々と従うほかありません。

彼らも賛同して上杉討伐が決まりました。

この派兵はただの上杉倒しではありません。今や家康こそが天下に最も近く、彼に逆らえばどうなるか示す軍事行動でもあったのです。

かくして会津へと向かう家康。徳川の中枢が留守となった上方では、長束正家・増田長盛・前田玄以ら三奉行が動き始めました。
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