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賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切り?

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賤ヶ岳の戦い
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美濃にいるはずの秀吉が突如帰還!

両軍共に陣(守り)を固め、先に攻めかかった方が不利になる――それゆえ戦況が動かずにいたのに、なぜ秀吉が先に動いたのか?

それは背後で織田信孝が挙兵して、岐阜に迫っていたからです。

前方に柴田勝家。後方に織田信孝。挟み撃ちに合えば危機は免れない。

そう判断した秀吉は、賤ヶ岳の戦場から離れて岐阜へと向かい、大垣城へ入ります。

好機!
とばかりに、ここで動いたのが鬼玄蕃として恐れられた佐久間盛政という武将でした。

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佐久間盛政は、信長に追放された佐久間信盛の親類です。

と同時に、母が柴田勝家の姉であり、勝家から見ると頼れる甥っ子でもありました。

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盛政は、戦闘に長けたタイプであり、秀吉不在となった陣への攻撃を勝家に提言。いささか強引に軍を進めながら、中川清秀を討ち、高山右近の軍を退去させるという快挙を達成します。

すわ柴田軍の勝利か――。

と、そこで戦場に凄まじい速度で戻ってきたのが秀吉でした。

まるで【中国大返し】のごとく、美濃から50km以上も走り続けた秀吉軍が、突如、佐久間盛政らに襲いかかったのです。

ここで並の武将でしたら、秀吉の出現に慌てふためき、散々に打ちのめされたでしょう。

しかし、さすが鬼玄蕃として知られる佐久間盛政。襲いかかる秀吉軍に対して、殿部隊が見事な働きを遂げ、無事に退却を果たします。

さすがの秀吉もこれには腸(はらわた)煮えくり返ったようですが、そこですぐに頭を切り替えられるのが天賦の才なのでしょう。

秀吉は、次なる敵を佐久間盛政の弟・柴田勝政と定め、ほとんど休む間もなく襲いかかったのです。

 

前田家の裏切りで勝負は確定

柴田勝政は、兄・盛政の撤退を補佐するため戦線に来ておりました。

そこで秀吉軍に見つかり、襲いかかられたのです。

兄を助けるはずが、一転、自身がピンチに陥る勝政。これを助けるため、佐久間盛政は再び戦場へ戻ろうとするのですが、その最中、凄まじいサプライズが起きます。

味方だったはずの前田利家前田利長が突如戦線を離脱したのです。

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なぜ利家が柴田軍を離れ戦線離脱したか、明確な記録はありません。

「利家は、勝家と主従関係に近い間柄だったが、以前から秀吉とも旧友であり、どちらとも戦えなかった」

なんて話もありますが、柴田軍にとってみれば許しがたき裏切り行為にほかなりません。

もちろん起こってしまったものは仕方なく、これによって盛政の軍が総崩れとなり、同じころ、前田利家の撤退を“敗北”と勘違いした柴田勝家の本隊から逃亡兵が多数出るようになり、柴田勝家本隊は約半数(3,000ほど)にまで減ったと言います。

こうなると反撃=討死も同然。

勝家は迎撃を諦め、本拠にしていた北ノ庄城へ退却し、賤ヶ岳の戦いは秀吉方の勝利となりました。

まったくもって柴田勝家も情けないな……と思われるかもしれませんが、実情はそう単純ではありません。

自ら犠牲になって戦場へとどまり、勝家に城へ戻るよう、強く提言した家臣(小姓頭)がいたのです。これが泣かせる話なのです。

 

毛受勝照「我こそは勝家なり!」

小姓頭の名は毛受勝照(めんじゅうかつてる)。

またの名を毛受家照と言い、かつて【長島一向一揆(1574年)】で柴田軍が馬印を敵に奪われた際、これを取り戻してきたというツワモノでした。

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名前が勝照あるいは家照であるのは、柴田勝家から許されたからであり、それだけ信頼されていたということがご理解いただけるでしょう。

賤ヶ岳での敗戦が半ば決まったとき、勝照は、主君の勝家に向かってこう言ったと伝わります。

「自分がここで敵を食い止めます。殿は城へ戻り、静かに腹をお斬りください」

そういうと500ほどの兵を引き連れ、勝家から受け取った馬印【金の御幣】を掲げ、「我こそは勝家なり!」と叫んで秀吉軍の攻撃を一身に受けたのです。

結果、秀吉軍はホンモノの勝家を捉えきることはできず、同時に、主君のために命を賭し、ついに力尽きた毛受勝照に感銘を受けることとなりました。

『太平記長嶋合戦』に描かれた毛受勝照(手にしているが黄金の馬印「金の御幣」)

毛受勝照の働きもあり、勝家は無事に北ノ庄城へ帰還。

その後、お市と共に腹を切るのですが、その様子は以下の記事に詳しくありますので、よろしければご参照ください。

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いずれにせよ、この一戦で、その後の織田家の趨勢が決まったのは間違いありません。

秀吉天下人への大きな足がかりとなるのです。

なお、柴田軍を裏切った前田家に対し、退却の途中、利家と面会した柴田勝家が「今後は秀吉を頼るがよい」と言ったという逸話があります。

これは退却の時間や経路などからして不可能であったと目されています。

豊臣政権のもとで五大老の重鎮になった前田家に対する忖度であった可能性が考えられます。

むろん、だからといって裏切った利家が悪いとは思いません。

生き残るためにとった判断であり、実際に加賀百万石の礎を築いたのですから、戦国時代であればそれが正解だったのでしょう。

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長月 七紀・記

【参考】
楠戸義昭『激闘! 賤ヶ岳 (歴史新書)』(→amazon
国史大辞典
賤ヶ岳の戦い/wikipedia

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