堀尾吉晴/wikipediaより引用

豊臣家

堀尾吉晴(豊臣三中老)と松江城の人柱伝説「美少女が埋められた!?」

人生、何が起こるか本当にわからないものです。

些細なあやまちが取り返しのつかない事態を引き起こしたり、約束もしていない知人と出くわしたり、パンをくわえた転校生と曲がり角でぶつかったり……。

戦国時代なんてまさに「その発想はなかった」な出来事が山のようにある時代です。

慶長十六年(1611年)6月17日は、堀尾吉晴という大名が亡くなった日。

「豊臣三中老」の一人ですね。

【豊臣政権の三中老】
堀尾吉晴
中村一氏
生駒親正

彼は尾張を統一した頃の織田信長に仕え、その後、豊臣秀吉について出世していった武士の一人です。

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元々は尾張の土豪だったそうですから、秀吉とはほぼ同じ出自でもあり、ウマがあったのかもしれませんね。

今回は松江城の人柱伝説と併せて見てみましょう。

 

山崎・天王山の死闘で明智方の将を討ち取る

堀尾吉晴は、もちろん武働きもきちんとこなしておりました。

信長の稲葉山城攻めで裏道への道案内役を務めたことを皮切りに、秀吉の出世のたびに加増を重ね、山崎の戦いでは先手の一員として参加。

天王山の奪い合いで明智方の将を討ち取るという大功を挙げ、翌年1万7,000石の大名になります。

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加増のたびに全く違う場所に行っていたため、なかなか落ち着いて内政に取り組むことはできなかったようですが、秀吉からの扱いはかなり良いものでした。

俗に「三中老」と呼ばれ、五大老と五奉行の仲裁役を任されているのも、秀吉が晩年まで信頼しきっていたからでしょう。

この役職名については実在したかどうかがアヤシイともいわれていますが、彼らがそういった仕事をしていたことはおそらく間違いないと思われます。

 

関ヶ原直後、死傷事件に巻き込まれて17ヶ所の負傷

そんなわけで徳川家康とも顔見知りだった吉晴は、秀吉の死後、徳川につきました。

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といっても関が原の頃には隠居しているんですけどね。

このとき隠居料の越前府中を家康からもらっているというのがミソです。

関が原の直前、家康が会津へ向かうときには、家督を譲った息子・忠氏とともに浜松で家康を接待しています。

吉晴としては戦についていくつもりだったようですが、さすがの家康も隠居した人間を会津まで連れて行くのは気が引けたのか、「息子だけついてくればおk。吉晴は越前に戻れ」として、忠氏が従軍することになりました。

ところが、です。

帰国の途についた吉晴にとんでもないトラブルが降りかかります。

 

関ヶ原直後、死傷事件に巻き込まれて17ヶ所の負傷

三河の池鯉鮒ちりゅう(現・愛知県知立市)というところで他の大名と宴会をしていたときのことでした。

そのうちの二人が口ゲンカになり、一方がもう一方を刺し殺すという事件が起きてしまったのです。

吉晴はどちらでもありませんでしたが、17ヶ所(!)負傷しながらも、加害者をその場で成敗して事を収めます。

被害者が家康の親戚だったため、西軍に抱き込まれて暗殺をたくらんだのでは……ともいわれていますが、それなら第三者がいるような場所ではやりませんよね。

事件が関ヶ原の年の7月だったため、しばらくの間、吉晴は療養に入りました。

本人としては本戦に参加できないのがよほど悔しかったようで、密かに近江や北陸の情報を家康に書き送っていたともいわれています。ヤル気ありすぎ。

ちなみに忠氏は、会津まで家康についていった後、そのまま本戦にも参加しました。

大きな武功をあげることはできませんでしたが、家康からはほめられて出雲松江に24万石という大幅な加増を受けています。

そのぶん吉晴の隠居料は召し上げられてしまっていますけれども、これだけあれば親子それぞれの家臣を養うにも十分ですから、特に不服を申し立てたりはしなかったようです。

 

城の縄張り位置を巡って親子どっちも引かず

吉晴と忠氏は比較的仲の良い親子だったらしく、松江に移ってからは協力して内政にあたっています。

唯一、モメたのは城を建てる場所でした。

当初、堀尾親子はかつて尼子家の本拠だった月山富田城に入ったのですが、ここは領地の北寄りすぎる上に、「天空の城」と呼ばれるほど峻険なところだったため、もっと開発がしやすいところに新しく城を建てることになります。

もちろん幕府にはきちんと届出済みです。

月山富田城絵図/wikipediaより引用

しかし、どこに建てるかという点に関してだけは二人とも意見を譲らず、もめにもめたのです。

場所が決まってなくても許可取れるってところが厳しいんだかテキトーなんだかわかりませんね。

トーチャンは「せっかく建てるんだから、将来人が増えたときのことを考えて広い場所がいいだろ!」と言い、息子は「父上のお考えはもっともですが、そこは広すぎてお金がかかりすぎます!」と反対していたのだそうで。

どちらも一理あるだけに、話し合いが困難を極めたことは想像に難くありません。
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