絵・小久ヒロ

豊臣家

近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と呼ばれた切ない理由とその生涯

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
京極高次
をクリックお願いします。

 

お初の姉・淀殿が秀頼を産み……

しかし、この結婚のせいで高次は”蛍大名”といわれるようになってしまいます。

お初の姉は淀殿(茶々)。
そして秀頼が生まれてからの秀吉が、彼女に激甘だったことは想像に難くありません。

この二点から

「高次は奥さんと義理のお姉さんを通して、秀吉に媚を売ったに違いない」

「女の尻のおかげで出世とはいいご身分よなwww」

というわけです。品がないなあ。

高次には関係ないんですけども、秀吉存命中の「蛍」に関する話がもう一つあります。

ついでですからご紹介しますと……。

ボケの始まった秀吉が【奥山に 紅葉踏み分け 鳴く蛍】という季節感も生態も無視した歌を詠み、勇気ある人がツッコんだところ、秀吉の八つ当たりを危惧した細川藤孝細川幽斎)がフォローして事なきをえた――というものです。

細川藤孝(幽斎)は文武芸術に通じた光秀の盟友!しかし本能寺後は……

続きを見る

結局、細川藤孝のチートっぷりが際立った、という話ですね。

 

家康と三成から協力を要請されて

陰口や不名誉なことを囁かれながらも、高次は真面目に働き続けました。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康石田三成両方から声をかけられていますので、少なくともただの蛍でないということは間違いないでしょう。

どっちつかずだったと見ることもできますが、彼はその立場を存分に生かして動きます。

まず最初に、家康から「ちょっと上杉んとこ行ってくるから、大津城(現・滋賀県大津市)の守りをお願いしますね」(超訳)と声をかけられました。

ボケッとしているわけにもいきませんし、京極家として家康とのコネは保っておかないとマズそうだと判断します。

そこで弟と家臣を家康に同行させ、体面を保ちました。

徳川家康(松平元康)が直面した3度の絶体絶命!75年の生涯まとめ【年表付】

続きを見る

が、ここで馴染みの武将を通じて三成から「徳川を始末するんでこっちについてくださいよ!アナタ太閤殿下に恩がありまくるでしょ!」(超訳)という要請が来ます。

もし三成につかないとなると、高次は大津城で西軍全てを相手に一人で頑張らなくてはいけません。

この城は大阪から京都を通って関東方面に向かう途中に位置しており、さほど規模が大きくはなく、また兵数も多くはありません。仮に籠城しても強く粘れる拠点ではない。

石田三成~日本一の嫌われ者を再評価! 豊臣を背負った忠臣41年の生涯

続きを見る

そこで高次は「まともに戦っても勝てなさそうだけど、三成が負けそうだし完全に味方するのもアレだな。よし息子を人質出して時間稼ごう」(超訳)という結論を出しました。

現代の感覚だと、人質=いかにも外道なことのように思えますが、当時はごくごく普通の外交手段の一つ。高次が特別冷たかったというわけではありません。

かくして「わかったよ三成さんにつきますよ」という態度をとりつつ、高次は篭城の備えをしながらこっそり上方の動向を家康に報告していました。

もし高次が本当に”蛍”だったら、この辺の腹芸はできなかったでしょう。

そしていよいよ西軍が出発し……。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.