前回の第7話は織田信長の出自と、その名を全国に響かせた【桶狭間の戦い】の2本立てでした。
-
-
信長を輩出した織田氏はドコから来てどう尾張に土着した?明智軍記第7話
続きを見る
-
-
桶狭間の戦いで信長が勝てたのは必然か『信長公記』にはどう書かれた?
続きを見る
今回第8話は、豊臣秀吉の出自と、出世のキッカケになったという【一夜城】に注目。
ただし、よく知られた逸話の【墨俣城】ではなく【伏屋城】になります。
一体どういうことか?
『明智軍記』の原文はこちら(→link)でご確認いただくとして、早速、注目箇所をピックアップしたいと思います!
※本連載は『明智軍記』を1~65話で読み解くものです。『明智軍記』は本能寺の変から100年以上が経過した1693~1702年頃の江戸時代に書かれた軍記物語(小説)であり、必ずしも史実を保証するものではないことをご承知おきください。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
秀吉の出自
豊臣秀吉の出自については一般的に「貧民の子」から「天皇のご落胤」まで諸説ありますが。
『明智軍記』では、母親について、
「尾州清洲の近所中村、弥助と云ふ土民の召し仕へし下女」
だとしています。
尾張国清洲の近く、中村に住んでいた弥助の下女――要は下働きをする女性ですね。
その彼女(母)が貧しい事を嘆き、甚目寺観音に百日詣すると、天文5年(1536年)に豊臣秀吉が生誕。申年だったので、名を「猿」と付けられました。父親は不明です。
豊臣秀吉の母親が百日詣した場所は以下3つの説があります。
①甚目寺観音(の境内の日吉社)
→『明智軍記』
②清洲山王宮 日吉神社
→織田信長が火起請をした神社
③日の宮神社(旧・日吉権現)
→通説
①~③まで一つずつ、少し詳しく見ておきましょう。
①甚目寺観音
『明智軍記』によると、豊臣秀吉の母親は、鳳凰山甚目寺(愛知県あま市甚目寺東門前)に100日間通い続けたといいます。
が、これは現実的には厳しそうです。
仮に母親が中村公園(愛知県名古屋市中村区中村町字高畑)辺りに住んでいたとすれば、甚目寺にしろ、清洲山王宮にしろ、そこまでの進路の途中には庄内川があり、増水時には渡し船が出なかったはず。
となれば彼女一人で渡るのは厳しく、100日連続というのは現実的ではありません。
※甚目寺公式サイト(→link)
②清洲山王宮 日吉神社
織田信長の生涯を記したことで知られる『信長公記』。
その中にも記載されている【火起請】について、清洲山王宮・日吉神社では以下のような見解を出されています。
「当神社は天下を取った三英傑に御縁のある逸話が伝えられており、戦国時代の武将織田信長公は、当神社の神前にて火起請(ひきしょう)という裁判に立ち合われたと伝えています。
尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。
そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。
江戸幕府を開いた徳川家康公は、小牧・長久手の合戦のおり、織田信雄公の軍勢とともに清洲に野営しました。その際、軍兵が当神社を焼き払ったので、当時の祀官が申し出たところ、軍兵の乱暴狼藉を禁止する制札を両将より賜りました。
戦いの後、信雄公は神社の本殿、末社を造営されました。
その後、家康公の四男松平忠吉公が清洲城主となり、日吉神社 を大々的に造営修復、社領を寄進し尊崇の誠を捧げられました。
また、忠吉公は弓術を好み射札を度々奉納されています。 神社の西側には当時の垣牆や弓場の跡が今も残っています。」
※清洲山王宮 日吉神社公式サイト(→link)
③日の宮神社(旧・日吉権現)
通説でもある日の宮神社には「日吉丸生母祈願之跡」の石碑が建てられています。
その内容は以下の通り。
日吉丸生母祈願之跡
日の宮神社は口碑によると、もと日吉権現と称し、豊臣秀吉の母大政所が一子を授かるよう日参した神社で、秀吉は天文5年丙申正月元旦に出生、幼名を日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験により授かったところから名付けられたと伝えられる
以上が秀吉の出自に関わることであり、次に、信長のもとでの出世ストーリーに注目してみたいと思います。
永禄元年から信長のもとへ
『明智軍記』によると、17歳になった豊臣秀吉は、叔母に将来の希望を伝えました。
「武士に仕えたい」
叔母はそのことを夫・青木重矩に伝え、秀吉は重矩に連れられて三河国へ行って奉公に励み、数年を経て、生国・尾張国へ帰ってきます。
そして永禄元年(1558年)9月1日、23歳で織田信長の小人(こびと・武家で雑役を担う者)となりました。
注目すべきは、
◆永禄4年(1561年)「清洲城の塀の普請」
◆永禄5年(1562年)「金の笄(こうがい)盗難事件」
です。
【清洲城の塀の普請】
永禄4年(1561年)8月20日、清洲城の塀が地震で100間(約182m)にわたって崩れた。
20日たっても修復工事が終わらなかったが、猿が織田信長に「私なら3日間で直せる」と言ったので任せてみると、競争原理を導入した【割普請】で、2日間で直してしまった。
以降、足軽に昇進し、生まれた村の名をとって「中村藤吉郎」と改名。木下雅楽助の寄子となった。
【金の笄盗難事件】
永禄5年(1562年・永禄4年の誤り)5月中旬のこと。
美濃国の墨俣城で、「織田信長公三十六功臣」の一人である福富平左衛門秀勝(貞次)が「金の竜の笄(結髪用具)」を失くしてしまった。
そこで盗みを疑われた藤吉郎。
津島の質屋に「金の竜の笄を売りに来る者がいたら連絡するように」と伝えておき、後日、のこのこ現れた犯人を首尾よく捕まえた。
織田信長は感心して、所領30貫を与え、寄親・木下雅楽助に命じて名字を譲らせ「木下藤吉郎」と名乗らせた。
そして、木下藤吉郎の出世の足がかりとなった一夜城の築城へ。
※続きは【次のページへ】をclick!