慶長十九年(1614年)10月10日は、家康が大坂冬の陣に向けて駿府を出発したとされる日です。
11日とする記録もあるようですが、今回はとりあえずこの日として、注目したいのが片桐且元(1556-1615年)です。
なぜならこの戦い、直前に行われた徳川と豊臣の交渉が非常に興味深く、そこで鍵を握っていたのが片桐且元でした。
且元の相手はもちろん徳川家康。
一体どんな話し合いが行われたのか?
関ヶ原の戦い前後の流れも併せて振り返ってみましょう。
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七行でまとめる豊臣家vs徳川家の決着
関ヶ原の戦いは1600年。
対する大坂の陣は、冬が1614年で夏が1615年です。
まずは、前後の経緯をざっくりと確認しておきますと……。
①慶長五年(1600年) 関ヶ原の戦い
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②慶長八年(1603年) 家康が征夷大将軍になる・千姫が豊臣秀頼に輿入れ
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③慶長十年(1605年) 家康、徳川秀忠に征夷大将軍を、秀頼に右大臣を譲る
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④慶長十六年(1611年) 後水尾天皇即位のお祝いに合わせ、家康が二条城で秀頼との会見を申し込む
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⑤慶長十九年(1614年) 方広寺鐘銘事件→大坂冬の陣
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⑥慶長二十年(1615年) 大坂夏の陣
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⑦慶長二十一年(1616年) 家康死去
日本史の重要な出来事の中でも、
「慶長という年号の間にかなり大きな出来事が2つも始まってケリがついた」
というのは、なかなか珍しい気がします。
年数で見ると16年間ですから、決して短くはないんですけどね。
何となく話の流れがわかったところで、もう少し細かい話に入りましょう。
徳川の実権がキッチリ長く続くように
「家康は関ヶ原の戦いで勝ってから、トントン拍子に幕府を開いて豊臣家を滅ぼした」
そんなイメージをお持ちかもしれませんが、実際はかなりの手間をかけています。なぜか?
家康は「誰の目にも正当な方法で、自分の子孫が実権を握り続けることができる仕組みを作りたかったから」かと思われます。
そのためには、できるだけ穏便かつ確実な方法で、豊臣家から政権を完全に譲り受けなければなりません。
関ヶ原の時点では、実権はともかく、名目上は家康が秀頼の家臣。
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ここで主筋の秀頼をすぐに処分しては、世間や朝廷から「元からそのつもりだったのか」と後ろ指を差されてしまうわけです。
仮に、そこで豊臣家から政権を強奪しても、また別の家の誰かに力尽くで奪われ、戦国時代が延々と続いてしまうおそれがありますよね。
ですから家康は、「秀頼では武家のトップに立つのは無理だ」ということをわからせるため、14年間かけて徐々に態度を強めていきました。
その第一歩が、自ら征夷大将軍になったことです。
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古来からこの官職は武家の棟梁がなるものとされていますから、勘が良い人であればこの時点で「もう豊臣家が武家の中心になるのは無理だ」と気付いたかもしれません。
当事者の豊臣家より、他大名たちのほうがよくわかっていたような感があります。
豊臣も公家ならば十分に生き残れた
「家康は何が何でも豊臣家を叩き潰すつもりだった」というイメージが強いですが、そうとも限りません。
秀吉は武家の職である征夷大将軍ではなく、公家の職である関白になっていました。
ゆえに「公家として豊臣家を残す」という手段はあったのです。色々と面倒はあるものの、豊臣家側にその気があれば、家康も乗ったでしょう。
それができなくなったのは、豊臣家に駆け引きができる人材がいなかったからではないでしょうか。
家康が、秀吉存命中からの約束である孫の千姫輿入れを予定通り行ったのは、
「そっちがきちんと対応してくれるなら、豊臣家をないがしろにするつもりはない」
というアピールだったのでしょう。
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征夷大将軍になって、わずか二年で秀忠に継がせたことも、世襲制をアピール。
「もう秀頼は武家のトップにはなれないんだから、ちょっと退いてくれ」ということを暗に示すつもりだったと思われます。
ここで豊臣家から何かしらのアクションがあって和解できていたら、豊臣家は公家としてずっと続いたかもしれませんね。
そしてそうなっていれば、方広寺鐘銘事件はなかったかもしれません。
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