片桐且元/wikipediaより引用

豊臣家

片桐且元(七本槍の一人)が豊臣と徳川の板挟み!大坂の陣での苦悶たるや……

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大坂城を退いた且元 かくなる上は武力行使やむなし

また、淀殿と同じように、

「豊臣家は家康の家臣ではない!」

と考える人々も、且元の提案を断固拒否しました。

だからこそ

【豊臣家を救いたい!】

という譲歩案を提出した且元に対し、豊臣家内は冷ややかな対応をするようになり、弟の貞隆も大坂城内で孤立。

結局、片桐且元と貞隆の二人は、貞隆の居城である茨木城(現・大阪府茨木市)へ退かざるを得なくなりました。

家康としては、且元が自分の意向に気づき、何らかの手を講じると考えていたでしょう。

豊臣家に引いて貰えれば、それで政権は安定し、完全に滅してしまう必要もないワケです。

しかし、その且元が大坂城から出てしまっては、もはや「豊臣家に、家康の真意と、現況を理解する人間がいない=話し合いが成立しない」ことを意味します。

後任のようなカタチで大野治長兄弟などがおりましたが、家康自身の寿命を考えれば、もうこれ以上の猶予はありませんでした。

 

大坂の陣直後に且元死す

もはや大坂へ攻め込むしかない――。

関ヶ原の戦い(1600年)から、この交渉までにかけた時間と比べ、方広寺鐘銘事件(1614年)から大坂冬の陣(1614年)までの時間は極めて短いものでした。

なんせ発覚したのが同年夏で、その2ヶ月後の10月には、家康自身が軍を率いて駿府を出ているのです。

おそらくは片桐且元を大坂へ帰した時点で、家康は「この冬までに良い反応がなければ、武力行使もやむなし」と決めていたのでしょう。

豊臣家は豊臣家で、方広寺鐘銘事件の前から浪人や兵糧を集めていました。

上方でも「いつ戦になるかわからない」といった噂が流れていたようです。

石田三成はとっくのとうに処刑されていましたが、この辺の豊臣側の動きは三成とよく似ているというか、「こう動いたら、世間や家康・幕府はどう思うか」「それが自分たちにとってどんな影響を与えるか」という視点が欠如している気もします。

家風といえばそれまでですけれども、もうちょっと良い形で危機を乗り越える方法もあっただろうな……と思えるだけに、残念なことです。

もしもこのとき、豊臣家が柔軟な姿勢を見せていたら?

豊臣家に味方した大名や武将も、現在よりは多く生き残れていたかもしれません。

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

なお、片桐且元は大坂夏の陣で家康方につき、自身の藩(竜田藩・初代藩主)を残しはしましたが、当人は豊臣家滅亡からわずか20日ほど後に亡くなっています。

死因については病死とも自害とも……。

なんとも切ない終わりになってしまいました。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
大坂の陣/Wikipedia
片桐且元/Wikipedia

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