天正12年(1584年)11月21日、小牧・長久手の戦いが終結しました。
秀吉と家康が覇権を競った合戦として知られますが、あの【本能寺の変】から2年5ヶ月しか経ってないんですね。
あまりに慌ただしい展開のため、戦国ファンの方でも、
本能寺やら
山崎やら
賤ヶ岳やら
アタマの中で結構、ゴチャついておりませんか?
そこで!
今回は、本能寺からの流れを年表チャートでまとめ、さらに地図で確認しながら【小牧・長久手の戦い】を見ていきたいと思います。
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小牧・長久手の戦い前の情勢とは?
小牧・長久手の戦いは「◯◯の勝利!」と言い切れるような、スパッとした決着ではありません。
1584年3月に始まったこの戦いは、戦場となったエリアがかなり広く、秀吉・家康の両軍が多くの陣や砦を構築。
長久手でのみ大きな戦闘があり、その他は小牧を中心に小競り合いしながら互いを見合う状態が11月まで続きました。
・小牧の戦い=両軍にらみ合い
・長久手の戦い=激しい戦いがあった
一言で言えばこんな感じです。
ここに至るまでを振り返ってみますと、まず本能寺の変が起きたのは、旧暦で天正10年(1582年)6月2日のことでした。
ご存知の通り明智光秀が本能寺に襲いかかり、信長と、二条城にいた跡取り息子の織田信忠らが亡くなっております。
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首尾よく織田のツートップを倒した光秀は、すかさず畿内と周辺の要衝を押さえにかかったのですが、そこへ突如として現れたのが、備中高松城の水攻めで毛利家と対峙しているはずの豊臣秀吉です。
秀吉は、黒田官兵衛や蜂須賀正勝を通じて安国寺恵瓊(その背景に吉川元春や小早川隆景らの毛利方)との和睦交渉を締結させ、10日間で230kmを移動する【中国大返し】を敢行。
【山崎の戦い】で光秀を破ります。
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しかし、これで織田家のトップに立てるほど甘くはありませんでした。
戦後に、
の四名による【清州会議】が行われ、確かに秀吉のプッシュする三法師が次代の織田家当主となっています。
しかし、織田家の精神的シンボルだった信長妹・お市の方は柴田勝家に再嫁し、さらには近江の要衝エリアが柴田方に押さえられるなどして、秀吉ばかりが有利に終わったワケではありません。
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そして勝家と秀吉は天正11年(1583年)に【賤ヶ岳の戦い】で激突――。
前田利家の離脱などもあって有利にコトを運べた秀吉が勝利を収め、織田家内での立場を決定的にしたのでした。
しかし……。
本能寺からの年表チャート
破竹の勢いの秀吉も、相手が徳川家康となれば、コトはそう単純でもありません。
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徳川は、秀吉が内部抗争で競っている間に、旧武田の領地である信濃半国・甲斐一国を掌握(天正壬午の乱)。
武田家臣団も取り込むなどしてメキメキと力をつけ、近隣エリアで秀吉に対抗できるほぼ唯一の存在になっていたのです。
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ここまでの流れ、いったん年表チャートで整理しておきましょう。
【年表チャート】
◆天正10年(1582年)
①本能寺の変
↓
②秀吉の中国大返し
↓
④山崎の戦い(秀吉vs光秀)
↓
③清州会議
↓
◆天正11年(1583年)
④賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)
↓
◆天正12年(1584年)
⑤小牧・長久手の戦い←今日ここ
織田家の権力抗争を勝ち抜いてきた秀吉と、旧武田領と人材を取り込み北条・上杉と渡り合った徳川。
兵力では秀吉有利なれど、戦はやってみるまでわからない――。
戦国ファンにはたまらない展開ですね。
しかし、当事者たちは別の意味でたまらなかったでしょう。
本能寺以来、毎年、大きな合戦が続いていたところに、今回の小牧・長久手の戦いです。
キッカケは、それまで秀吉と微妙な関係を保っていた織田信雄でした。
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