絵・富永商太

豊臣家

小牧・長久手の戦い(豊臣vs徳川の総力戦)複雑な戦況をスッキリ解説

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土木戦術に優れた両軍は共に動けず

この合戦は、山崎の戦いや関ヶ原の戦いのように、両軍激しくぶつかるド派手な戦闘には発展しておりません(長久手の戦いを除く)。

豊臣も徳川も、周辺エリアに拠点(砦など)を設置しまくったため、両者、動くに動けなくなってしまったのですね。

まるで【賤ヶ岳の戦い】のような展開です。

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拠点設置(土木工事)を重要視して、敵と対峙するのは【長篠の戦い】にも見られた戦術であり、その後の秀吉による三木城や鳥取城、あるいは備中高松城での戦いでもそうでした。

そうした事情を家康が知らないわけもなく(長篠の戦いには参戦)、ゆえに両者慎重にならざるを得なかったのでしょう。

ちょっと細かくなりますが、両軍の拠点を列挙してみます。

【豊臣方の拠点】
犬山城
楽田城
羽黒砦
内久保砦
外久保砦
小口城
青塚砦
岩崎山砦
小松寺山砦
田中砦
二重堀砦跡
大留城

【徳川方の拠点】
小牧山城
蟹清水砦
北外山砦
宇田津砦
田楽砦

【その他】
長久手古戦場跡

視覚的にわかりやすくするため、以下の地図に拠点をマークしておきました。

よろしければザッとご覧ください。

戦場の規模がご理解できるはずです。

※黄色が豊臣の拠点で、赤色が徳川拠点、紫色が長久手の戦い古戦場となります

現在の名古屋市を取り囲むようにして、多くの拠点が広がっているのがご理解いただけるでしょう。

北側エリアが秀吉で、南側が家康ですね。

右下の赤いマークが岡崎城であり、ここが戦況を大きく動かすキッカケとなります。

キッカケとは他でもありません。

両軍が膠着している間、三河の岡崎城を攻めるべく豊臣方が別働隊を発射させたのです。

いわゆる【中入り】と呼ばれる作戦で、これが長久手の戦いへ繋がっていきます。

 

中入り戦術――徳川の本国へ攻め込む

この中入りという作戦。

徳川の本国へ攻め込めば、岡崎城を落とせずとも、膠着した戦況に変化を生むことができる――そんな豊臣方の狙いがあったとされます。

そしてまた、攻め込んだ部隊も見事なメンバーでした。

【中入り部隊】
総大将:羽柴秀次
一番隊:池田恒興・元助・輝政父子
二番隊:森長可
三番隊:堀秀政
四番隊:羽柴秀次・田中吉政

羽柴秀次とは、後に自害へ追い込まれる(あるいは自発的に自害したともされる)あの豊臣秀次です。

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当時は豊臣秀頼が生まれておらず、秀吉の信任も厚かった、あるいは後継者として手柄を立てさせたかったのでしょう。

総大将を任されています。

他に、池田恒興という織田家歴戦のツワモノや、鬼武蔵と呼ばれた森長可(ながよし)、信長の側近として長らく活躍した堀秀政など、錚々たるメンツが揃っており、豊臣方にしても「あわよくば……」という思いもあったかもしれません。

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しかし、ここは徳川のほうが一枚上手でした。

中入り軍の虚を突いて襲いかかり、池田恒興と森長可を討ち取るという、凄まじい戦果を挙げたのです。

これが【長久手の戦い】です。

【小牧・長久手の戦い】の名前にもなっているように、徳川から見れば華々しい戦歴であり、このとき武田の赤備えを引き継いだ井伊直政の凄まじい働きぶりが伝わっております。

以下の記事に直政の詳細が掲載されておりますが、

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先鋒としてがむしゃらに突撃し、敵の陣形を崩すという「突き掛かり戦法」を駆使したとされます。

駆使というか、命がけの突撃ですよね。

さすが井伊の赤鬼。

この戦いの後、直政は4万石→6万石へと大幅加増されました。

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