こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【清正の暴言】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
関ヶ原の東軍参加も説明がついてしまう?
秀吉はこのとき「明皇帝のお嬢さんをくれ」と、いかにも女好きな要求をしています。しかも二人。どんだけやねん。
困った小西行長は「皇帝の娘は来たけど途中で病死したので、代わりに馬300匹もらいましたということにしておかない?」と、秀吉に内緒で明の使者と裏条件を提示、非常に危険な自己流外交を進めます。
なんせ小西は商人あがりのため経済重視な一面もあり「さっさと戦争はやめて、明と貿易して儲けたい」という考え。秀吉の要求をことごとく勝手に取り下げていたのです。
-
商人から戦国武将へ なぜ小西行長は豊臣政権で大出世できたのか?
続きを見る
これに感づき、小西外交を批判したのが清正です。
「神にも近い秀吉さまの意向を勝手に変えやがって!」
なんて血相変えたとされていますが、実際、清正が接触した明側の記録をひもとくと、真逆のセリフが相手に伝わっていました。
――秀吉を日本国王に任命(明皇帝の臣下になること)する――。
そんな明側の意向を聞いた清正はこう答えたというのです。
「は? 日本には天皇という王がいるぜ。そもそも秀吉は出自の卑しい人間で、今だけ日本の西半分に号令をかけられるに過ぎないんだよ」
戦国ファンとしては一瞬目を疑ってしまうかもしれません。
とても清正とは思えないほど、辛辣な秀吉評ではないですか。
-
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ
続きを見る
関ヶ原の東軍参加も説明がついてしまう?
この発言は『偽りの秀吉像を打ち壊す』(→amazon)で佐島顕子氏が担当されたページにも掲載されていて、以下のように原文が記されています。
(吾国王尚在、慈仁愛人。関伯隷人也。只得檀号令於西辺諸島)と惟政に語ります(「実録」二十七年六月丙寅十九日)。
『偽りの秀吉像を打ち壊す』155ページ
加藤清正と言えば、慶長伏見地震が起きた際、真っ先に秀吉のもとへ駆けつけ、その安否を気遣った(という創作エピソードもあるほどの)忠臣。
たとえ異国の地で秀吉に振り回され怒り心頭だったとしても、敵の使者に危険なホンネを漏らすなんて、かなり意外な話でありましょう。
佐島氏は同記事の中で以下のようにも記しております。
秀吉の政権とは、秀吉という個人の力が尽きた時に政権も終わる、永続性のない一代限りの政権だと見られていたわけです。
そうなれば、これまで不思議とされていた、清正の関ヶ原東軍参加も合点がいくかもしれません。
結局、秀吉の人たらし術も一過性のもので、身近でいつも接している人物(清正)には通用しなかったのか、と思わされたりもします。
なんにせよ太閤殿下の人望の無さだけは伝わってくる、ちょっと切ないお話でもありますね。
あわせて読みたい関連記事
-
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ
続きを見る
-
福島正則は秀吉子飼いの武将なのに~徳川政権で転封改易の悲劇を辿る
続きを見る
-
商人から戦国武将へ なぜ小西行長は豊臣政権で大出世できたのか?
続きを見る
-
日本史随一の嫌われ者・石田三成を再評価!豊臣支えた41年の生涯
続きを見る
-
賤ヶ岳の七本槍って実は九本槍!? 戦場ではどんな活躍を? まんが戦国ブギウギ81話
続きを見る
文:川和二十六