宇喜多直家/wikipediaより引用

宇喜多家

宇喜多直家(戦国の謀殺王)は本当に謀将か?没落の身から息子は五大老へ

戦国時代には、今の常識が通用しないことが多々あります。

織田信長が、自分を裏切りそして滅ぼした義弟・浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼った――というのも、実は死者に対する敬意を示すものだった?なんて説もあります。

この話自体は『信長公記』に記されたものですが、それはさておき。

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今回は、別の常識ハズレな方に注目です。

天正七年(1579年)10月30日、宇喜多直家が織田家に降伏しました。

この直家、松永久秀斎藤道三と並び【日本三大梟雄】の一人に数えられる人物です(息子はイケメン・宇喜多秀家さん)。

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妻の父や、娘が嫁いだ相手まで謀殺した直家。

そのエゲツなさは突出した感もありますが、さりとて「冷酷な人」と簡単に済ませられる話でもなく、直家にも相応の理由はありました。

振り返ってみましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

祖父の代では没落していた宇喜多直家

宇喜多家は、直家の祖父・宇喜多能家(うきたよしいえ)の代で没落。

嶋村盛実(しまむらもりざね)に攻められ砥石城(備前)で自害しております。

それが天文3年(1534年)のことで、以降、直家は、父の宇喜多興家と備後の鞆津(とものつ)や備前の商人を頼るなど、多大なる苦労を重ね、天文12年(1543年)頃に浦上宗景に仕えました。

天文13年(1544年)には元服して乙子城(おとごじょう)の城主に着任。

城主と言えば聞こえがよいですが、手勢わずか30数人だったとされ、周囲の有力勢力(細川氏や松田氏や海賊)から板ばさみのような状態になり、なかなかお家安泰とはなりません。

力の弱い家が生き残っていくためには、謀略に頼るほかありません。

そこでよく用いたのが、謀殺。

例えば永禄2年(1559年)に同盟&婚姻関係を結んでいた舅・中山信正を殺害したのが最たる例でしょう。

妻の父である中山信正と直家は、信正の本拠地である沼城の近くに茶亭を作り、そこで酒宴を開くことがよくありました。

そして永禄2年の某日、お酒が深夜まで及び、中山信正が眠りにつこうとしたそのとき。

直家が斬殺したのです。

 

斬殺した舅の沼城を自身の本拠地とし……

この一件は主君・浦上宗景にも事前に相談していた話でもあり、直家一人を悪者にするのもどうか?という考え方もあるようです。

が、このとき同じく邪魔者だった嶋村貫阿弥も沼城へ招き入れ、そこでも斬り殺しているのですから、鮮やかというか空恐ろしいというか……。

いずれにせよ直家はこの後、舅が支配していた沼城を自身の本拠地としています。

さらには永禄4年(1561年)のこと。

宿敵・松田元輝配下の城主を滅ぼしたかと思ったら、今度はその元輝と手を組み、毛利氏配下にいた三村親家を暗殺しています。

ただし、暗殺や謀殺などの策を張り巡らせるばかりだけでなく、当人は合戦も上手で【明禅寺合戦】で三村元親(家親の子)を撃破したかと思ったら、先の松田元輝も攻め滅ぼしたり、備中松山城の三村元親を滅亡させたりしています。

この間、敵対していた毛利家とは、足利義昭を通じて和睦するなど、外交における臨機応変さを見せています。

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基本的に頭の良い方であったのは間違いなさそうですね。

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