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享徳の乱で関東は超カオス! 足利と上杉のドンパチ28年間って長過ぎるだろ

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永享の乱やら嘉吉の乱やら。

「ナントカの乱」が頻発する頃合いになると、室町時代というより戦国時代といったほうが正しい気がしてきますね。

さらに「ナントカ公方」まで乱立するようになると、後世の我々からすれば「いい加減にせんかい!」とツッコミまくりたいところ。

今回は最悪なことに、その二つが重なった【享徳の乱】を見ていきましょう。

 

まずは享徳の乱を三行マトメ

まずはこの戦を無理に【三行】でまとめてみます。

・永享の乱後、鎌倉府の再興で大失敗
・関東のあっちこっちの大名がどさくさに紛れてお家騒動
・大規模な戦は収まったけど、関東は小国乱立状態が定着したまま戦国へ

みたいな感じです。
とにかく関係者が多いのでこんがらがりやすいのですが、最低限に省略してお話を進めます。

そうでないと何万字書いても終わらない(´・ω・`)

事の発端は【永享の乱】でした。
永享の乱と享徳の乱は、中心人物が敵対関係ごとそのまま世代交代したような話なので、とても関連が強い出来事同士です。

例えば国史大辞典では、まとめて永享の乱の項目に書かれていたりします。

永享の乱については以下に別記事もございますが、「もう一度読むのダルい」という方も多いかと思いますので、今一度、サラッと確認しておきましょう。

永享の乱とは?鎌倉公方・足利持氏が1438~39年に切腹へと追い込まれ

室 ...

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永享の乱をおさらいしましょう

室町幕府の機関の一つとして「鎌倉府」というお役所があります。
その名の通り鎌倉に置かれていて、幕府の目が届きにくい東日本の統治をするための部署です。

ここのトップである関東公方の地位は、初代将軍である足利尊氏の次男・足利基氏の子孫が代々世襲することになっており、しばらくは問題なく務めておりました。
補佐役の関東管領は、これまた世襲で上杉氏が担っています。

対立のキッカケは、六代将軍・足利義教と四代目鎌倉公方・足利持氏が不仲になったことです。

足利義教/wikipediaより引用

両者の争いは、次第に「幕府vs鎌倉府」という構図に発展。
足利持氏が、関東管領・上杉憲実を排除しようとしたことがキッカケとなって争いが激化し、その結果【永享の乱】というカタチで滅ぼされました。

更には、持氏の遺児を擁した結城氏vs幕府の「結城合戦」を経て、「関東はしばらく上杉氏が統治する」ということで一旦は落ち着きました。

しかし、です。
このタイミングで、また大きな騒動が起きます。

将軍・義教が【嘉吉の乱】によって赤松満祐に暗殺されてしまったのです。

嘉吉の乱とは? 足利義教が暗殺され室町幕府を衰退させたグダグダっぷりが凄い

政 ...

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鎌倉府を押さえつける力の源泉だった義教がいなくなり、今度は関東が【半独立化】する事態となりました。

とはいえ、関東の大名の中にもこの状況を憂えている人はおり、彼らが
「持氏様のご子息である足利成氏(しげうじ)様を、新たな関東公方にしていただけませんか」
と申し出ると、幕府からも許しが出て、ようやく鎌倉府は元の形に戻った……ハズでした。

 

新たな関東管領に就いた憲忠 その家臣が……

新たな関東管領には、上杉憲実うえすぎのりざねの息子である上杉憲忠が就いています。

憲実はもともと鎌倉府と幕府の間に立って仲裁しようとしていたので、主筋である足利持氏を討つことは不本意であり、後ろめたさを抱いておりました。
そのため憲実は、息子の関東管領就任に反対していたのですが、憲忠は父親ほど思いつめてはいなかったようで、自らの就任を押し切ります。

一方、足利成氏からしてみれば、上杉氏は父の仇にも等しい存在です。
そのため、関東管領である憲忠よりも、結城氏・里見氏・小田氏など周囲の実力者たちを重用するようになりました。

当然、上杉憲忠はこれに反発します。

そして上杉氏の家臣たちが結城氏らの勢力拡大を阻止するため、足利成氏を攻めるという暴挙に出ます。

「ウチの殿様は関東管領なんだから、こっちを優遇してください!」
と脅し(物理)をかけたわけですね。

そんなことをされて成氏の心象が良くなるわきゃーない。
脅されて言うことを聞くような人だったら、そもそも上杉氏を冷遇しようなんて思わないでしょう。

 

幕府の命で今川範忠が出陣するも

不穏な空気が漂う中、享徳三年(1455年)の末に、足利成氏と里見氏・武田氏が、上杉憲忠とその側近を暗殺してしまいます。
これが【享徳の乱】の直接のキッカケとなりました。

関東管領の座は、直ちに憲忠の弟・上杉房顕(ふさあき)が継ぎ、彼はイトコである越後守護・上杉房定と組んで、上野平井城に籠もります。
そりゃあ、兄である当主をいきなりブッコロされたんですからね。
黙っているわけにはいきません。

このとき、鎌倉付近にいた上杉氏の重臣・長尾景仲は、憲忠の妻など生存者を救出し、地元の上野に戻って兵を集めています。

そして足利成氏方vs上杉房顕方の戦いとなるわけです。

初戦の「分倍河原(ぶばいがわら)の戦い」は上杉方の惨敗。
このころ上杉氏には「山内家」と「扇谷家」という二つの系統があったのですけれども、なんと扇谷家の主要人物がほとんど命を落としてしまいます。

長尾景仲はどうにか生き延びました。

が、政治が総理大臣一人でできないのと同様、戦も武将一人ではできません。
ひとまず常陸の小栗城へ逃れ、同時に幕府へ憲忠暗殺の報告と、足利成氏討伐を求める急使を立てました。

幕府のほうでも事態を重く見て、直ちに駿河守護・今川範忠(今川義元の曽祖父)に出陣を命令。
しかし、今川軍が合流する前に小栗城が落ちてしまい、上杉方は窮地に立たされていきます。

 

留守にしていた本拠地・鎌倉を上杉方に奪われる

成氏はついでに宇都宮等綱(うつのみや ひとつな)を降すなど、転戦を続けました。

しかしここで、留守にしていた本拠地・鎌倉を上杉範忠に奪われてしまうのです。
「足元がお留守」とはまさにこのことでした。

範忠は六代目将軍・足利義教のおかげで今川氏の当主になれたようなものだったので、幕府に対する忠誠心が非常に厚い人だったんですね。
しかもこのときは、朝廷から「錦の御旗」まで受けているので、気合の入れようが違います。さらに……。
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