wikipediaより引用

合戦

応仁の乱って何なんだ? 戦国時代の幕開けとなった乱戦をコンパクト解説!

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まだ義政も頑張っていたが、いよいよ開戦へ……

いったん、ここまでの関係をマトメておきましょう。

足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉
vs
足利義視・細川勝元・斯波義敏

こんな感じです。

一応、将軍である義政もこの時点ではまだ完全には丸投げしていませんでした。

文正元年(1466年)に義政は、育ての親でもある政所執事・伊勢貞親の献言を容れ、斯波義廉を引っ込め、大内氏に身を寄せていた斯波義敏を当主にしました。

しかし、「義視が謀叛を企てている」と義政に讒言したことがキッカケで、伊勢貞親は失脚。

連座して義敏も越前に逃れ、再び義廉が当主になりました。

仮にも三管領の一角である家がこんなにコロコロ当主を変えていたら、政局が不安定になるのも当たり前です。

それは当の本人たちもわかっていて、山名持豊・斯波義廉、そして細川勝元などが急いで兵を集めにかかります。

さらに山名持豊らは、足利義政に畠山義就を赦免するよう迫り、義就の軍が入京します。

だんだん収集がつかなくなってきましたね。

いよいよ開戦です。

 

畠山政長が屋敷に火を付け神社に立てこもる

応仁元年(1467年)、持豊らは義政に

「管領を畠山政長殿から斯波義廉殿に変えてください(変えないとどうなるかわかってますね?)」

と迫りました。

義廉は先述の通り、持豊側の人です。

つまり、幕府の中枢において、勝元よりも持豊の勢力が強まったことになります。

政政争に敗れた政長はこれを知ると、京にあった自分の屋敷に火を放って上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に立て籠り、義就に決戦を挑みました。

いよいよ応仁の乱スタート!

さすがにヤバイと思ったか。

足利義政は、細川勝元と山名持豊の二人に、この戦への介入を禁じましたが、既に命令を聞く二人ではありません。

持豊が義就を大々的にバックアップして勝利し、実質的に京都を占領します。

むろん、細川勝元もここで引くようなタマではなく。

自分に与する守護大名たちに上洛と派兵を呼びかけ、最初に応じたのが赤松政秀でした。嘉吉の乱でいったんは滅亡同然になった家ですが、勝元が復興させていたのです。

政秀は勝元に与し、近所かつ旧領かつ持豊の領国である播磨を攻めて占領しました。

彼にとっては願ったり叶ったりの展開だったかもしれません。

 

勝元陣営が各地で奮闘 しかし持豊も負けてはおらず

全国の勝元陣営はさらに奮闘します。

斯波義敏が越前の奪還に、武田信賢が一色義直の占拠する若狭に……と、かねてから遺恨のある相手に戦いを挑んで勝ち、山名方の勢力を削る戦略を次々に進めていったのです。

勝利を収めた彼らは、やがて大軍を率いて京に集まってきました。

勝元自身も、北陸・畿内・四国などの領国や、代々付き合いのあった京都周辺の武士たちを数多く動員できました。

それに従って兵站も確保しやすかったので、緒戦の段階では勝元方が圧倒的に有利だったといえます。

しかし、持豊も負けてはおりません。

その年の夏、国元の兵三万を京都に迎え、さらに西国の雄・大内政弘や伊予の河野通春などを味方につけました。

細川方は花の御所(将軍御所)に、山名方は堀川の西にあった持豊邸に本陣を置いたといわれています。

京都市街として見ると、細川方が東側、山名方が西側にあたります。

そのため前者を「東軍」、後者を「西軍」と呼ぶようになりました。

西軍の本陣付近は「西陣」という地名の由来でもあります。織物で有名なあのあたりですね。

なお、両軍の兵力は、東軍16万に対し、西軍11万といわれ、まさに大乱といった様相を呈しておりました。

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