お城野郎! 武田・上杉家

第三次川中島の戦い~俺はSHINANO生まれ♪ KITA-SHINANO育ち♪ 不満分子はだいたい・・・♪

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 「信玄が決戦を避けた」戦いと言われているが・・・

実は武田方は城郭戦のセオリーである後詰めの布陣を敷いていません。

上杉の攻撃が早くて強力だったというのもありますが、それ以上に地元の国人衆だけを残して武田の右翼も左翼も退却していたので、ほとんど何も抵抗がなかったというのが真相でしょう。

武田本隊に決戦を挑みたい謙信は善光寺平南部まで深く攻め込み、当時、改築中であったといわれる後の海津城、松代の「香坂城」も破壊します。
さらに雨飾城の攻略にかかりますが、さすがの堅城。これは落とすことができませんでしたが、謙信の目的はあくまで武田の本隊との決戦ですので雨飾城攻略に腰を据えて取り掛かるつもりはありません。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141218-10

謙信 怒涛の反撃ルート/©2014Google,ZENRIN

結局、善光寺平南部、松代方面の奥深くまで進むも武田本隊に遭遇することなく飯山城まで撤退して行きました。

この第3次川中島の戦いは、第2次のように武田方が平野部に出て来ず、籠城したり撤退したりしたことで「信玄が決戦を避けた」戦いと言われています。

では武田信玄の決戦を避けた意図はどこにあったのでしょうか。

 

ほとぼりが冷めるまで秘湯めぐり・・・なワケないっす 

ここでまた信玄の大戦略「謙信の留守を狙え」という言葉を思い出してみましょう。
これは裏を返せば「謙信がいるときは動かない」ということです。本拠地甲斐の国から遥かに離れた地で謙信と決戦など補給がいくらあっても足りません。善光寺平へ通じる補給ルートを次々と確保してはいますが、肝心の海津城がまだ築城中で完璧ではありません。

一方、謙信も常時、北信濃に滞在できないことはこれまでの行動で分かっています。謙信が善光寺平にいるときは、じっと引きこもっていればいいのです。今や盟友の北条氏康に関東で暴れてもらうという戦略も使えます。

それでは決戦を避けた武田信玄はほとぼりが冷めるまで秘湯巡りでもしていたのでしょうか。

実はこの間に信玄は、深志城に本陣を移し、朝廷や幕府に仲介をお願いしたり、せっかく味方になったのに敵地で孤立した北信濃国人衆に対しても救援を約束したり、武田方の武将(真田幸綱、小山田虎満)には細かい戦略を指示したりと、こまめに手紙を発して総司令官の役割を存分に発揮していました。

と同時に、越後侵入の新たなルートの開拓も進めております。

これは深志城からまっすぐ北上するルートで、現在の白馬村方面から山間部を抜けて糸魚(いとい)川沿いに越後に抜けるルートです。つい最近、大地震の発生でニュースになった地域ですね。

信玄はこの糸魚川ルートの攻略に山県昌景を送り込みます。ここには詰めの城として「平倉城(ひらくらじょう)」、別名「小谷城」(おだりじょう)があり、激戦、といっても守備側には上杉方の後詰めが遅れ、山県昌景にほぼ一方的に攻撃(=放火、またしても)されて落城しています。

「そっちに来たか!」という信玄の一手

「そっちに来たか!」という信玄の一手/©2014Google,ZENRIN

糸魚川ルートは平倉城で進軍をストップさせます。これ以上の越後方面への進軍は上杉と本気の正面衝突になるばかりか、善光寺平の支配というそもそもの目的からも外れてしまいます。

いつでも越後に攻め込めるぞ!

そんな脅威を作るだけでいいのです。糸魚川ルートは平倉城で押さえつつ、信玄は謙信によって奪い返された善光寺平に向かい塩崎城に布陣しました。

 

山が動いた!でも動かない!武田信玄、川中島へ

第3次川中島の戦いは最後に上野原という善光寺付近で武田と上杉が激突したことになっていますが、これが諸説ありまして「髻山城(もとどりやまじょう)」付近の上野原説と飯山城方面の上野原説です。

「髻山城」付近と考えると、上杉方は武田方の犀川渡河を簡単に許したことになりますが・・・。

「髻山城」付近と考えると、上杉方は武田方の犀川渡河を簡単に許したことになりますが・・・/©2014Google,ZENRIN

髻山城付近説では上杉謙信は武田方を追い払った後に撤退したとされています。

しかしあれだけ武田との決戦を望んだ上杉がちょこっと交戦しただけで追撃すらしないなんてありえるでしょうか。しかもわざわざ旭山城を再興して最前線に再設定した犀川を簡単に突破されたことになります。

一方、飯山城付近説では、千曲川沿いに北上した右翼の信濃先方衆が、逆時計回りに上杉方の包囲を画策して、飯山城付近で千曲川を渡ったところで上杉方と交戦し、撃退されたとされています。中野付近に布陣していた武田方右翼の動き(犀川を避けて北上)を見ていくと、こちらの説の方が連続性があってしっくりきますが、もはやこの地に川中島の「か」の字もありません。

「上野原の戦い」は後年作られた講談などで「第3回川中島の戦い」を演出するために無理やり川中島での戦闘を設定したとも言われてます。しかし川中島の戦いを丹念に見ていけば平野での決戦などそもそも設定する必要なんてありません。これまで見てきたように川中島の戦いは攻城戦が主体なのですから。

結局、武田信玄は西方では平倉城を得て糸魚川ルートを押さえることに成功し、要塞化を進めていた松代方面では謙信に攻められたものの、堅城・雨飾城で持ちこたえることに成功。北信濃の国人衆も真田幸隆の活躍により多数味方につけ、越後方面への進撃ルートも複数確保することに成功しました。

一方、上杉謙信は越後方面への要衝、飯山城を死守し、善光寺平には旭山城を橋頭堡として確保しましたが、北信濃の国人衆の大半を武田方に奪われた状態で、ついに有名な第4次の川中島の戦いに挑むこととなります。

 

やはり川中島の戦いは城攻め主体の陣取り合戦である

さて、第1次から第3次までの川中島の戦いを見てきましたが、いかがでした?

私の妄想が確かでなくても、川中島の戦いのイメージが変わったと思います。また、あなたがお城マニアでなくとも、川中島の戦いはこのように城攻め主体の陣取り合戦だったことが分かるとも思います。

そしてめまぐるしく城の持ち主が変わり、もうどっちがどっちの城だか分からなくなってきてそっと閉じる・・・おっと。これが最前線の城のカタチであり、領土を奪い合う合戦のカタチなのです。

最前線の城、特に川中島を取り巻く数々の城は、ほぼすべてどちらかの城攻めを受けたという「戦歴」を持つ正真正銘の戦国の城なのですなぁ。
これだけでもう川中島に3年は住めるというものです。

住んだことないけど。

※次回へ乞うご期待

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 

 



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