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お城野郎! 武田・上杉家

第4次川中島の戦いは武田・上杉の城戦略から真相が見えてくる

更新日:

織田信長豊臣秀吉だけでなく、日本全国の大名たちが「城」をいかなる戦略で運用していたかに迫る【シリーズ戦国大名の城】。

第一弾は、城イメージのあまりない武田信玄を迎え、川中島の戦いについて迫ってきましたが、前回の「第3回川中島の戦い」をザッとおさらいしてみますと、それはまさに「トムとジェリー」のような展開で・・・。

信玄が調略しまくる→謙信ガマン→信玄調略しまくる→謙信キレる→信玄逃げる→謙信全力で追う→信玄全力で逃げる→謙信オトナの対応であきらめる→信玄戻ってきてまたちょっかい出す→謙信待ち構えていて撃退→信玄逃げる

詳細はコチラへ第三次川中島の戦い 俺はSHINANO生まれ♪ KITA-SHINANO育ち♪ 不満分子はだいたい・・・♪

 

強者同士の戦いとなると、そう簡単に全面戦争とはなりませんが、双方、決してヤル気がなかったワケじゃなく、それどころか詰将棋のように緻密な戦いが展開されていたのです。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-3

善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

 

第3回川中島の戦いで武田信玄は、和睦の条件として、風前のともしびの足利幕府に掛け合い「信濃守」の称号を購入し‥‥おっと、手に入れました。

「自称も可能な名ばかりの役職」ですっかりおなじみの守護職ですが、「将軍様に信濃守護職頂いちゃいました~」とフェイスブック風に自慢してみたり、「信濃は俺様の領土!」とゴーマンかましてみたり。北信濃国人衆だけでなく国内外に広く、あることないこと宣伝しまくって「なんか武田さんちの信濃が上杉に侵略されてるらしいよ」というステマの垂れ流しに「信濃守」の称号を存分に活用していました。

このように武田信玄は善光寺平の新しい統治者としての政治的支配も着々と進めていたのです。

 

逃げてばかりいると部下たちが不満を抱くおそれも 

では軍事的支配は、どのように発展させたのでしょうか。

これまでは「謙信の留守を狙え」の大戦略にのっとり、謙信が北からやってきたら遥か南へ退却という戦略を取っていました。が、第3回川中島の戦いでは謙信の大掛かりな逆襲に遭ってしまい、北信濃の諸城に予想外の損害を受けてしまします。

また、謙信が来たら退却という戦略も一部の武田方の武将も少々納得がいかなかったようで、「士気が落ちる」「戦わせろ!」「それでも男ですか!軟弱者!」「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」おっと、いつのまにかガンダム名言集に。

つまり戦いたくてうずうずしている武将がちらほらと出てきていたのです。

もちろん武田信玄自身は兵力の温存こそが最大の勝機であることは分かっています。一方で少し下に見ていた上杉謙信が【関東管領】に就任=関東切り取り次第というお墨付きへの焦りも徐々にでてきていました。

 

 

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海津城のイメージはスターウォーズに出てきた巨大な球体!

こうした情勢の中、最前線支援の単なる補給地点という目的だけでなく、善光寺平の新しい政治的および軍事的統治のシンボルとして海津城が築城されます。

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代城址に残る海津城の碑

 

この要件を満たすには川中島の要衝に位置し、恒久的なものでなくてはなりません。

そして海津城を名実ともに政治的拠点にするには信玄に近い譜代の家臣を置き、武田家直轄の城にしなくてはいけません。

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おなじみの松本城。この場所に「深志城」がありました

 

このような方針は、信玄にはすでに実績がありました。現在の松本市一帯を支配下に入れたとき、深志城を築城していたのです。今では深志城の面影は残っておりませんが、現存の松本城の場所に築城され、町割りまで新たに施した「平城」だったようです。

平城は、織田、豊臣、徳川時代のものでもなければ、戦国後期のものでもなかったんですねえ。

 

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松代地方そのものが天然の要塞だった 

通常、政治的支配を目論む城を築くならば川中島を通る「北国街道」を押さえる場所か、善光寺付近に城を構えるのが適しているでしょう。しかし依然として国境線は犀川で、川中島のど真ん中に城を築く危険はおかせません。そこで信玄が選んだ地は北国街道の脇街道が通る松代方面の平野部でした。

犀川はよく氾濫したようで、脇街道といっても人や物資の往来は海津城築城以前からこの地方にかなりあったことが推察されます。

また、この地域には以前から東条氏、寺尾氏、清野氏、香坂氏など、複数の北信濃国人衆が館を構えていましたので、ある程度の町は既にあったでしょう。城を築いて武田の政庁を置くにはうってつけの場所だったのです。

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海津城全景。松代地方は雨飾城や鞍骨城も含む巨大な複合城郭ともいえます/©2015Google,ZENRIN

 

 

そして今回の海津城も「平城」です。しかし海津城周辺の地図を見れば、平城といっても一目瞭然の要害なのがお分かり頂けるでしょうか。三方を高い山に囲まれて、しかも山々には雨飾城や鞍骨城といった堅城を外郭とし、開けた方面には千曲川が攻城側の行く手を遮るのです。

山に囲まれた平野部には町割りに適度な広さを得られます。さらに裏山から峠越えで小県郡の真田本城方面につながる補給と後詰めのルートがありますので袋のネズミになる心配もありません。

このように海津城、というより松代地方そのものが天然の要塞であり、政治からビジネス、人々の生活、そして軍事まですべてを備えた巨大な要塞、まさに「デス・スター」となっていたのです。

ちなみに戦時中も、この地に本土決戦の最後の拠点を建設しています。興味のある方は「松代大本営跡」でググってみましょう。

 

海津城 名前の由来は山本勘助?

海津城は「海のような千曲川」に沿って築城されたことから「海津」と命名されたと言われています。また山本勘助の築城図「甲斐図」から命名されたとも言われ、城名の由来には諸説あります。

いずれにしろ築城当時は千曲川の流れを海津城の堀として利用した川沿いの「平城」であったこと、また築城には山本勘助が関わっていたことが分かります。

現在は江戸時代の真田家の松代藩時代を経て「松代城」として整備が進み、千曲川の流れも変わってしまって戦国時代の「海津城」の趣きは全くありません。しかし山城ばかりの善光寺平の一角に平城がぽつりと立っている不自然さ、そし海津城を中心に町割りをして新都市を建設を目論んだ計画的な築城だったことに海津城の魅力があり、夢の新都市構想の妄想も広がるのです。

 

武田流築城術で重要な縄張り「丸馬出」 海津城自体がまるで

さて海津城の構造ですが、武田流築城術で重要な縄張りの一つ「丸馬出(まるうまだし)」の存在が確認されています。この「丸馬出」については以前に書きましたが、前面で防衛しつつ両脇から攻撃も繰り出せるという、敵の優勢な攻撃が予想される地点に配置するには持ってこいの防御施設です。

しかし、海津城はもっと大きな規模で見なくては城の本質を、そして諸説ありまくりな第4回川中島の戦いの行方さえも見誤ってしまいます。

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松前城の想像図。千曲川を背にした向きは海津城時代と同じです。手前に丸馬出の名残り「三日月堀(みかづきぼり)」が見えます

 

海津城築城当時は千曲川を天然の水堀として川に沿って築城しました。ゆえに海津城の大手門は千曲川の反対側、川中島の平野に対して背を向けて築城されています。これは後の松代城でも同じです。

つまり川中島方面に軍勢を出撃させるには城の脇をくるっと旋回させ、数カ所ある千曲川の渡しを通過して川中島に出ることになります。

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

 

勘のいい城マニアならもうお気づきでしょう。そうです。海津城そのものが「馬出」の構造なのです。

山に囲まれた松代の町を一つの巨大な城塞と考えると海津城は一つの曲輪「馬出」でしかないのです。

真偽が未だ定まらない「甲陽軍鑑」において山本勘助が「馬出」について力説する場面があります。海津城を設計したのは山本勘助とも言われていますが、これも諸説あります。

海津城は「香坂城」を改修しただけという説もあります。

いずれにせよ山本勘助が海津城という巨大な馬出しの考案に関わったことは間違いないでしょう。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

 

海津城を本城とし、大堀館や横田城など複数の支城が防衛戦戦を支える

次に軍事戦略の観点から海津城を見てみましょう。

この海津城を本城として武田信玄は境目の城を支城としてそのネットワークに取り込みます。川中島のはるか北東、千曲川西岸の長沼城を突出した最前線の橋頭堡として活用します。この長沼城は第3回の川中島の戦いにも出てきましたが、千曲川の渡しを管理している城で、ここを通って野尻湖方面に向かうともうそこは越後です。また飯山城方面への押さえとしても機能します。

一方、依然として国境線である犀川の南部、川中島一帯には第2回の川中島の戦いで信玄の本陣となった「大堀館」や「広田城」、「横田城」という陣所レベルの小規模な城が犀川の最前線として、また塩崎城や南方の真田本城方面は後詰めのルートとして、海津城を取り囲むように機能していました。

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このように信玄は犀川方面では北国街道を川中島の支城で押さえ、北国脇街道は長沼城から雨飾城にかけて複数の城で押さえます。これらの本城、大規模な支援基地として海津城を新たに加えたのです。

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