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織田家 お城野郎!

信長が初めて築いた小牧山城 織田家の戦略を一変させた 【シリーズ信長の城 vol.2】

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前回は織田信長の見事な戦略と戦術、そして少しばかりの運で今川義元を討ち取るという大金星をあげたところまで紹介しました(詳細はコチラ)。

『桶狭間の戦い』の真相をお城視点で完全分析! 後詰を捨てたからこその勝利だった!? 【織田信長の城 vol.1】

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150320-8

写真は一向一揆の拠点「鳥越城」

 

一方でこの勝利の背景には、尾張の城が戦国武将としては恥ずかしいほどショボかった――籠城戦に能わず、他国で野戦(先制攻撃)に出るしか尾張防衛はできない――という事情があったことも信長の城から考察しました。

安土城のネームバリューから、城に強いコダワリのあるイメージの信長ですが、桶狭間でエポックメイキングを迎えるまでは大したことなかったんですね。

では一体いつから城に対する考え方が変わっていったのでしょうか。

中世の「館」から戦国の「山城」へ!

今回は清州城から小牧山城への変遷に伴う、織田家の城戦略の進歩に目を向けてみたいと思います。

 

小牧山城は安土城のプロトタイプだった!?

皆さんは、小牧山城をご存知でしょうか? この名前は秀吉と家康による「小牧・長久手の戦い」の方が有名で、城については知らない、あるいは興味のないという方も多いかもしれません。

小牧山城は、最近まで岐阜城の中継ぎ程度に見られて、マニア中のマニアしか手を出さないような非常に影の薄い城でした。
そもそも築城の目的も「美濃の稲葉山城(のちの岐阜城)攻略の拠点にするために美濃方面に拠点を移動させた」とか「信長の強権発動や突飛な発想」によるものと、やや誤解されて伝わっていたのです。

しかし、近年の発掘、そしてつい最近の発掘調査により、城下町を新設し、さらにこの時期には珍しく本丸には石垣を張り巡らせて、基本構造も後の安土城にウリ二つの【本格的な大城郭】だったことが分かってきました。

この前まで「型落ち中古の国産車で十分。走りゃあいいんだよ。実際、桶狭間走って勝ったし」って言ってたくせに、「やっぱりクルマは頑丈でないとね。この米軍仕様の軍用車見てよ!向こうから避けてくわ!低燃費?はっはー」というくらいの変貌ぶりです。

いったい何があったのか、気になります。

てなわけで、絶望的な築城後進国であった尾張の国に突如現れたこの小牧山城の築城を見ていきましょう!

 

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信長 美濃の斉藤家に目をつけられる

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、とりあえず尾張東方の脅威は収まりました。この間に松平元康(徳川家康)は今川家から半ば独立したかたちで三河の平定を目指します。

「信長とは旧知の仲で、人質時代には信長によく遊んでもらったりしたので同盟もすんなりいった」

そんな心温まるエピソード的な扱いをされてしまいますが、実際は、今川義元の死後、多少の混乱期を経て織田―徳川の国境が確定。利害関係を一致(尾張-三河間の安全を保障)させたことにより講和が成立し、その後「清須同盟」に発展しております。

そうです。戦と外交はどこまでもリアリズムが追求されるのです。

家康の幼名は竹千代

家康の幼名は竹千代

 

成り立ちからしてこの「清須同盟」は「共に戦う」という性格のものではなく、「お互いに領地を侵さない」という程度のものでした。
信長による苦戦の連続の美濃攻めや最初の上洛までの間に家康がさっぱり出てこないのはそのためです。

この時期はまだ尾張は統一できていません。尾張北部は半独立勢力の織田信清の勢力範囲でした

この時期はまだ尾張は統一できていません。尾張北部は半独立勢力の織田信清の勢力範囲でした/©2015Google,ZENRIN

 

道三を倒した義龍は、父に似た(?)智将

それでは桶狭間の戦い直後の尾張を取り巻く勢力図を見ていきましょう。

尾張は、清洲城を中心に、北部には犬山城を中心とした織田信清の勢力圏。
その北の木曽川の北岸には美濃の斉藤家。
南東に三河の松平(徳川)家。

もうお分かりのように信長の当面の目標は尾張を完全に自分の支配下に置くこと、すなわち尾張の統一が第一の課題でした。
そして、背後で織田信清を操る美濃の斉藤家をなんとかしなければいけないわけです。

では、この美濃斉藤家との仲はどうだったのでしょう。

美濃の斉藤家というと真っ先に思い浮かぶのは斉藤道三でしょうか。その娘婿が織田信長というのはあまりにも有名な話ですが、この斉藤道三は桶狭間以前に息子・義龍の謀反で敗死してしまいます。信長も道三に援軍を出したものの、結局は間に合いませんでした。

その後、斉藤家を率いた斉藤義龍は、かつての斉藤-織田家の婚姻関係はまるでなかったかのように織田家への圧力を強めます。義龍は父に劣らぬ智謀に優れた武将だったようで、織田家の内紛に何かとちょっかいを出しては尾張を混乱させていました。

信長も背後の斉藤家がうっとおしくて仕方がなかったのですが、尾張国内の織田家同士の勢力争いに巻き込まれて美濃どころではありません。

 

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義龍に見限られた浅井が織田と接近し、お市が!?

また、義龍の妻は近江の浅井家から嫁いできておりましたが、義龍は何を思ったか、その浅井家の妻と離縁。そして近江で浅井家と敵対していた六角家に娘を嫁がせるのです。
この突然の外交方針の転換により、斉藤家は浅井家と敵対。これが遠因となり浅井家は織田家に接触し、信長の妹「市」との婚姻につながっていくとは、あまり知られていない話かもしれません。

ちなみに信長の妹「市」の結婚は永禄10年(1567年)説と永禄4年(1561年)説があります。永禄10年説だと「市」は20才を過ぎており、この時代にしては結婚が遅く(そのため再婚説もあり)、永禄4年説だと、市の年齢(14~15才)も当時の結婚適齢期で辻褄が合うと言われております。

1561年前後でしたら、斉藤家が浅井家との同盟を破棄しており、信長とも敵対している時期ですので、浅井&織田の対斉藤家という外交戦略からしても永禄4年説はかなり有力な気がします。

いずれにせよこの後に続く織田家vs斉藤家のガチンコの争いは、信長に対しての度重なる嫌がらせと斉藤家の外交方針の転換がきっかけだったことが分かります。

これが桶狭間の戦い前後の尾張―美濃の緊迫した状況です。

 

またしても強運な信長! 義龍が急死す

しかし、です!
ここでまたしても信長にビッグチャンスが到来します。
なんと目の上のタンコブであった美濃の斉藤義龍が永禄4年(1561年)に病で急死してしまうのです。いったい、度重なる嫌がらせの連続はなんだったんでしょうか。

ともあれ、戦国時代の他人の不幸は自分のチャンス。当主の死こそ最大のボーナスステージです。信長は一気に美濃へ攻め込みます。

その素早さといったらありません。通常、当主の死は伏せられるのですぐには情報が伝わってきませんが、信長は義龍の死の直後から兵を集めます。
この辺はさすが、城がショボかった(まだ言うか!)ため情報収集と野戦に明け暮れていた、父・織田信秀以来の伝統です。




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電光石火で美濃に侵攻いたします。

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