お城野郎! 織田家

信長が初めて築いた小牧山城 織田家の戦略を一変させた 【シリーズ信長の城 vol.2】

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桶狭間の戦いから3年後、1563年(永禄6年)に信長は小牧山城の築城に着手します。

当時の文献には「火車輪城」という名で出てきますが、曲輪が等高線のように段々に重なっているため「車輪」と表現されました。

また、小牧山城の本丸・主郭部分には、石垣が使用されました。以前から本丸部分には2段構えの石垣の存在が知られていましたが、今年に入ってさらに3段目の石垣が発見されたというニュースもありましたね。

注意してほしいのが、石垣が使用された箇所はあくまで城の主郭、本丸(等高線の上部)を囲む部分であり、小牧山の山全体が石垣で覆われていたわけではありません。小牧山城の山頂部分が総石垣で、残りの大部分は土塁でできた土の城です。

当時、石垣を多用した城や寺院は尾張には存在しませんでした。

信長がどこで着想を得たのかはいまだに不明ですが、最も攻撃を受けやすい山のふもとに近い部分ではなく、遠目にしか見えない主郭部に石垣を張り巡らせるという手法は「守る」というより「見せる」に力点が置かれているとも言われています。

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今でも城下町の名残りを道路に残しています/©2015Google,ZENRIN

この小牧山城の南側には家臣たちの屋敷と城下町が新設され、惣構えで城下を囲っていました。また、小牧山の南面には山の麓から主郭に向かって一直線の大手道が配されています。

後の安土城にも見られる構造ですが、作った理由はいまいちわかっていません。一説には、天皇を迎えるための専用通路と考えられていますが、小牧山時代の信長は、まだ天皇を迎えられるほどの位を極めておりません。

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これは安土城の大手道。左右は屋敷跡です。ここも南側に面しているので、山の手の高級住宅地という感じがします

 

北方の犬山城に対して裏側にあたる南側にこのような直線道路を配置したことを考えると、合理的な思考から、攻撃を受けにくい箇所からの素早い出撃が可能な軍用路として配したのかもしれません。

ちなみに主郭部分に近づくとこの大手道は左右に複雑に折れ曲がる道になります。これも安土城と酷似。同じ小牧山の山中と言えども、主郭とそれ以外の曲輪を明確に区別していたように見受けられます。

もしくは信長の発想は山全体が城というよりも、「山頂だけが城で、残りの山の部分は城下町の延長」だった可能性も考えられますね。日当たりの良い南側斜面は、高級住宅地のような山の手気分。そう考えると信長は、なかなかのデベロッパーぶりを発揮しています。

ここで小牧山城の誤解を一つ解いておきましょう。

小牧山城が美濃の稲葉山城攻略に備えて築城されたというような説明がネット上では散見されますが、築城を開始した当時の状況や城の位置を考えると、小牧山城は犬山城攻略の拠点と見るべきです。もちろん稲葉山城も見据える位置にはありますが、犬山城とその支城ネットワークを破らないと稲葉山城どころか木曽川にもたどり着けません。

当面の敵は織田信清なのです。

 

そして戦わずして勝つ! 小牧山城の存在感

犬山城の支城の一つであり、信清にとっては信長との境目の城に「小口城」という平城があります。

この小口城は、小牧山城が築城される前に信長と小姓衆からの力攻めを受けています。城主の中嶋備後守は散々に崩されるも何とか城を死守。しかし小牧山城が完成すると、丹羽五郎左衛門長秀の調略によって信長に降伏します。

一説によると、小牧山城の石垣の威容と信長本隊が大挙して近所に引っ越してきたことに圧倒され、降伏を決めたと言われています。

同じく織田信清の家臣・和田新助が城主だった「黒田城」も、丹羽五郎左衛門長秀の調略により信長方に寝返っており、これで犬山城の支城ネットワークはズタズタに引き裂かれてしまいました。

特筆すべきは信長のこの時期から硬軟おり混ぜての攻略が見事なことです。

小牧山城築城の自信がなせるワザなのでしょうか。少なくとも、もう濃尾平野の片隅で敵の攻撃をおそれて力攻めの先制攻撃を仕掛ける必要はなくなりました。そういった心境や戦略の変化をもたらすものがこの小牧山城にはあったのでしょう。

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残るは犬山城のみ。犬山城を落とすにはセットで鵜沼城、伊木山城も落とす必要があります。これは同時に美濃に橋頭堡を築くことになります/©2015Google,ZENRIN

信長は、城で相手の戦意を萎えさせるという効力を小口城の降伏開城で初めて実感しました。特に調略だけで織田信清の支城を攻略し、犬山城を裸にした戦略は、この後の美濃攻略戦にも活かされます。

この時期には丹羽長秀だけでなく、木下藤吉郎が木曽川一帯を管理する川並衆(蜂須賀、前野など)を味方に率い入れるという活躍も「武功夜話」に記されています。
「武功夜話」は墨俣一夜城と同じく、かなり物語色が強いので(怪しげな記載も多いので)注意が必要ですが、この時期に木曽川の荒くれ者、おっと、私的管理者である川並衆を味方につけるというのは、戦略的にも大いにあり得ることだと考えます。

織田信清の利権を脅かしつつ犬山城を包囲、なおかつ木曽川対岸の美濃側に適当な橋頭堡を構築するのに彼らの存在は大いに役立つからです。

残念ながら木下藤吉郎が直接関わったかどうかは不明ですし、川並衆の存在すら不明です。

が、その後、木曽川の対岸、犬山城からほど近い小山の【伊木山の砦】占拠に成功したのは木下藤吉郎。美濃攻めの橋頭堡を美濃国内に築くというのはかなり大きな功績でした。この事実にいろいろな尾ひれがついて、川並衆の活躍や一夜城の話ができあがったのかもしれませんね。

 

永禄7年(1564年) 稲葉山城乗っ取り!キレッキレの軍師様キレる

犬山城の支城を奪い、犬山城を包囲するのみとなったところで、ここでまた美濃に大事件が起こります。斉藤龍興の居城・稲葉山城が家臣の竹中半兵衛重治と北方(きたがた)城主の安藤守就にあっさりと奪われてしまったのです。

竹中半兵衛重治は占拠後に声明を発し、美濃三人衆と言われた稲葉良通(曽根城主)、氏家直元(大垣城主)、安藤守就を美濃の国政から遠ざけ、酒色におぼれている龍興のダメさ加減を叱責。信長は即座に、竹中半兵衛に美濃半国と引き換えに稲葉山城の明け渡しを要求します。

が、これは断られ、結局、半兵衛は半年ほど稲葉山城を占拠した後、斉藤龍興に返却し、自らは近江の浅井家の下に向かってしまいます。

織田方への稲葉山城の引き渡しはかないませんでしたが、この一件は斉藤家が以前のような一枚岩ではないとこを内外に宣伝してしまいました。ここから信長の怒涛の斉藤家家臣団の切り崩しが始まります。

またこの頃、足利将軍家からも上洛の要請が届くようになりました。小領主ながら莫大な金銭を持っていた信長が幕府に献金してきた結果がようやく出始めたのです。従来、足利将軍家は斉藤家を支持していたのですが、この美濃の混乱を経て潮目が変わってきました。

ここで信長は犬山城の攻略を早めます。

城下に放火しつつ、柴田勝家佐久間信盛という、いかにも筋肉質な軍勢で犬山城を力攻め。また、犬山城対岸で信清に協力していた「鵜沼城(うぬまじょう)」の鵜沼衆に対しては、蜂須賀彦右衛門正勝や前野将右衛門長康が渡河戦を挑みます。

信清はたまらず逃走。犬山城を捨てて武田信玄の甲斐まで落ち延び、そこで庇護されました。

 

永禄8年(1563年) ようやく尾張統一!長かったよ。すげー長かったよ

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尾張統一!鵜沼城、伊木山城を橋頭堡として美濃攻略に取り掛かります/©2015Google,ZENRIN

ここから先は、尾張勢による怒涛の美濃攻めとなりますが、そのキッカケとなった小牧山城がいかに重要な拠点だったか、ご理解いただけたでしょう。

岐阜城までのつなぎでもなければ、マニアのためのマニアな城でもない。当時の清須城のポンコツっぷりが目に余るぐらい、尾張の城事情に革命をもたらした最新鋭の山城だったのです。

実は、織田信長が桶狭間の戦いでの華々しい勝利の後、尾張一国を統一するのに5年もかかっております。美濃一国の平定にはさらに2年。桶狭間以後も決して順調ではありませんでした。

しかしこの間に「ショボい城しかない」という自らの弱点を克服し、家臣の反対を押し切って築城を進めた信長の軍事イノベーションは特筆に値すると思います。

戦国武将として十分な資格を得た信長は、先制攻撃主体の戦略に調略戦を織り交ぜるという新たな戦略にも磨きをかけていきます。

それもこれもすべては小牧山城という鉄壁の城を得たからに他なりません。

 

信玄も領土拡大に乗り出し、安穏とはしてられない

今後も信長を取り巻く【尾張国外の情勢】は、ますます混沌としていきます。

信長レベルの武将にも上洛要請が来るほど足利幕府はジリ貧となり、そして足利義輝が暗殺。同じ頃、第5回の川中島の戦いが終わり、いよいよ【いぶし銀】の武田信玄が甲斐、信濃を超えて領土拡大を始めます。

この頃から信長は、武田信玄と上杉謙信の両雄に誼みを通じ始めますが、このような国外の情勢と無関係ではいられませんでした。

そこで信長は思います。

「美濃まで取れれば上洛できるな。浅井と仲いいし、カネもある。しかし、信濃方面から信玄坊主が出てきたら厄介すぎる。うーん。小牧山城じゃ、ちょっともたない」
「殿!新車が必要かと!」
「デアルカ!!」

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 

 



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