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織田信長が浅井長政に裏切られた理由が超スッキリ! 近江の複雑な事情とは【シリーズ信長の城 vol.4】

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これまで3回に渡ってお送りしてきましたシリーズ戦国大名「織田信長の城」。
今回は美濃の地に築城された戦国のモダニズム建築「岐阜城」と、その先に見える「近江国の複雑な事情」をご紹介しましょう。

織田軍団、ついに美濃を手中に

斉藤家の家臣団を切り崩して稲葉山城を一気に陥落させた我らが織田信長は、ついに美濃の支配権を手に入れました。
ここでまたまた本拠地の移転を決断。理由ははっきりしておりませんが、稲葉山城を中心に据えた周辺地域一帯の防衛能力の高さを認めていたのでしょう。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150726-1

稲葉山城(岐阜城)の眺望を遮るものは何もありません。「天空の城」の名にふさわしい地の利を有しています

前回も紹介しましたが稲葉山城そのものは各曲輪が狭く、井戸は雨水を溜めたものしかないため、城そのものの防御力は非常に低いです。当然ながら長期の籠城にも向いていませんでした。

しかし稲葉山城の真価は、その眺望性と地の利にあります。

現代でも南は名古屋の中心地から西は関ヶ原まで見渡せるように、美濃への侵入者をいち早くキャッチすることが可能です。さらに長良川と木曽川が絶妙な位置で防衛ラインを形成して敵の侵入を食い止め、たとえ渡河されても広大な濃尾平野で縦深が取れるので、十分に味方の軍勢を整えることが可能なのです。
レーダー施設のような稲葉山城を本丸と見立て、木曽川と長良川を天然の水堀として広大な濃尾平野とセットで防御ラインを形成する稲葉山城への移転は、信長にとって合理的な決断でした。

にしても、この決断はほんと凄いです。いくら合理的であっても基本的に戦国大名は本拠地を移転するようなことはしません。

武田信玄は何年にもわたる川中島の戦いの時期でも最前線に本拠地を動かさず、甲斐の「躑躅ヶ崎館」から毎回川中島まで、手間も経費もかかる遠征を繰り返していました。
上杉謙信は関東管領就任後も居城は依然として関東からはるかに遠い越後の西の端「春日山城」で「関東管領の意味って何よ」状態でした。

先進的な法律の導入や軍制改革を行った今川義元でさえも、戦線が西へ拡大したからといって駿河の「今川館」からは離れませんでした。
広大な関東を手中にした北条氏康も関東の西の端、小田原城に拠点を置いたままでした。

このように戦線が拡大しようが本拠地が最前線に近かろうが拠点は動かさない。先祖代々の土地は決して離れない。戦国大名としては当たり前のことでした。

 

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親子二代に渡る引っ越し癖は遺伝なのか?

しかし信長は違います。次々と本拠地を移転していきます。
信長が規格外の男だったということもありますが、実は信長の父、織田信秀も本拠地をこれでもかというほど移動させています。
信長の出生地をめぐり「那古野城」と「勝幡城」で論争が起きたのも、信秀が引っ越ししまくったので、信長の出生当時の本拠地が曖昧だったからです。
信秀は築城しては移るというパターンを繰り返していましたが、多くは戦略的な本拠地の移動でした。元々尾張が詰めの城すら築けない低地で、敵との境目になるような自然地形にも乏しく防御に向かない土地だったという環境要因が一つの理由でしょう。

その後、信長は石垣を多用した小牧山城を築城しました。が、麓からの比高が100mにも満たず、遠くの稲葉山城からも見下ろすことが可能な高さしかなく、犬山城や猿啄城など自然の険しい地形を生かした堅城に比べるとまだまだ防御能力に劣っていたことが分かります。

結果的に小牧山城を手に入れても、織田信清など尾張国内が相手ならまだしも、対斉藤家となると機能しません。戦術は依然として素早い機動力での先制攻撃が主体となっていました。

しかし、その先制攻撃も木曽川を渡る度に斉藤方にいち早く侵入をキャッチされ全く利かなかったのです。まさにレーダーのように稲葉山城の高所から捕捉され、木曽川渡河に手こずっている間に斉藤方は既に戦の態勢を整えて対岸で待ち構えて織田方は完敗。この自らの弱点を克服するために、信長は斉藤家・家臣団の調略という、時間も手間もカネもかかる戦術に頼らざるをえませんでした。

そんな苦労して手に入れた稲葉山城ですから、信長としても、このまま放置することはできません。ましてや小牧山城より優れる稲葉山城を家臣に分け与えるなどもってのほかです。

「ならば破壊してしまえ!」と考えずに「自分で住んでしまえ!」と考える男、それが信長なのです。

 

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「地名は土地の歴史」byタモリ を今回も完全に無視

美濃攻略後に信長が中国の故事に倣い「岐山」から一字を取って「岐阜」と地名を変更したことはあまりにも有名です。

が、信長は「稲葉山」を「岐阜」と改名したのではありません。正確にいうと、斉藤時代の稲葉山城の城下町「井口(いのくち)」という町名と稲葉山をセットで「岐阜」に改名しました。細かいようですが、これは岐阜城の特徴を語る上で重要です。

信長時代の岐阜城についてはあまりよく知られていません。信長死後に何度も合戦の場になっており、戦国時代を通じても池田輝政や織田秀信(三法師)など城主が目まぐるしく変わり、その度に改修され、さらに攻城戦の舞台となって信長時代の遺構が破壊されまくったからです。それだけならまだしも現代になってからお城を観光の目玉にしようと「観光地化」という名の破壊が繰り返されてきました。

現在、金華山(=稲葉山ですが、稲葉山城と区別するため、「金華山」で説明します)の山頂に建つ岐阜城天守閣は、もちろん信長時代のものではなく、その後の岐阜城でもありません。完全なるフェイクの復興天守です。

最初にこの地に復興天守が建ったのはなんと明治時代です。お城フェイク史(そんなものあるのか!)に、貴重な第一歩を記した地としても岐阜城はマニアの間では有名です。ちなみにフェイクな天守すら何度か焼失しており、現在の復興天守は1950年代に再建されたものです。

金華山の山頂では、歴史あるフェイクな天守に全力で釣られるのも良し、怪しげな個所にツッコミを入れまくるのも良しの珍百景スポットではありますが、ここまで来たらぜひ、天守そのものではなく、天守からの「眺め」に注目してください。これだけは斉藤道三や織田信長の時代とは何ら変わりません。木曽川を大軍で押し渡る織田軍団が妄想で見えてきたら岐阜城はもうあなたのものです。

 

ついに見えてきたぞ!近世城郭「岐阜城」へ

話は信長時代の岐阜城に戻ります。
信長が山頂に初めて天守を建てたといわれていますが、では山頂の天守だけが岐阜城かというと違います。金華山の麓にも居館を設けています。

では山全体が岐阜城かというとこれも少し違います。

岐阜の城下町。長良川の流れは戦国期の推定。城下町も城の外郭として完全に守られた造りなのが分かります

岐阜の城下町。長良川の流れは戦国期の推定。城下町も城の外郭として完全に守られた造りなのが分かります

 

信長は最後の稲葉山城攻めの時に、城下町「井口」に放火して徹底的に焼き尽くしています。戦いで灰になってしまった城下町を土で埋め、新たに「岐阜」と命名して町づくりを始めました。
岐阜の城下町は金華山の西の麓から長良川の岸辺に沿って再建され、これは斉藤家の井口時代とほぼ同じ場所、同じ規模の町並みだったようですが、信長はこの城下町全体を「惣構(そうがまえ)」という土塁で囲むのです。

この総構により、斉藤時代には別物だった城下町の「井口」と「稲葉山城」が、信長時代になると城下町とセットで「岐阜城」となります。
ここに至って城下町も城の一部として吸収され、城郭は単なる軍事施設ではなく、政治や商業の拠点の意味も含むようになり、いよいよ近世城郭の萌芽が見られるようになりました。

信長は、この新生「岐阜」へ織田家の家臣団を移らせ、武家屋敷街を作りました。
小牧山城でも同じように家臣団の引っ越しと町割りをしましたが、もともと尾張で先祖代々の土地を持っていた織田家の重臣たちは基本的には自分たちの土地で自前の城(館)に住んでおり、全員が小牧山城下に住んではいませんでした。

しかし、ここは新天地・美濃です。「先祖代々の土地があるんで~」とか、古参が「ここだけの話よ、今の織田家の勢いは俺様のおかげでもあるのよ。まあ、織田家中で親方様にモノ申せるのは俺様だけさ」by佐久間とか、城下への引っ越しを拒んできた有力家臣たちもいよいよ岐阜の町に移るしか選択肢の余地はありませんでした。

 

これだけでも信長の権威が尾張時代と比べて格段に増していたことが分かります。
思えば信長は美濃攻めのほぼすべての戦いで陣頭指揮を執って結果にコミットしてきた男でした。勲功第一は、信長とその直轄軍といっても過言ではありません。

相対的に織田家旧来の家臣たちは権威が落ちてきて、もはや馬廻り衆や新参の美濃衆、また木下藤吉郎秀吉や川並衆など、無頼の輩からノシ上がってきた家臣との区別もなくなってきました。

岐阜城下への移転は身分や出仕歴にこだわらない、実力主義の流れをさらに加速する効果もありました。

また、以前は居候のような扱いを受けていた半農半士の二男三男を積極的に直轄軍の兵士として採用してきた結果、岐阜の城下町は農村社会から完全に切り離された都市の住民で溢れ、賑やかな大都市に生まれ変わるのです。実際、1万人くらいが岐阜城下に暮らしていたもよう。ちなみに当時の町割りは現在の区画とほぼ同一で、現在の道路も当時の配置とほぼ同じだそうです。

 

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