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信長が浅井に裏切られた理由が超スッキリ!近江の複雑な事情とは

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近江の戦国史ダイジェスト

尾張統一から休みなく続いた戦乱の7年間でしたので、このまましばらく国力の充実を図るのもいいですが、そこで休ませてくれないのがブラック企、おっと、織田家中です。約1年後には足利義昭を擁して京に向かって進撃を開始します。

ここで信長の同盟関係を整理しておきましょう。

【美濃東部】では、武田信玄と婚姻政策で東濃地域を緩衝地帯とした同盟関係にあります。

【三河方面】では娘の五徳を徳川家康の息子、信康に嫁がせて相互不可侵条約とも言うべき清須同盟を完全な同盟関係に強化しました。

【美濃の西部・近江】では浅井長政に妹の「市」を嫁がせて同盟を結びましたが、この同盟関係は武田、徳川とはちょっと気色が異なり織田家と浅井家双方に混乱をもたらします。

浅井家は長らく南近江の六角家と近江の覇権を争っていました。
戦略的には、美濃の斉藤家と組んで六角家と敵対していたのですが、斉藤義龍の時代になると斉藤家は浅井家と縁を切り、六角家と縁組みしてしまいます。
関ヶ原付近を挟んでこのようなパワーゲームが行われていましたので、同地域で孤軍になりそうな浅井家と織田家の同盟は必然でした。

代表的な城だけ載せていますが、近江には膨大な数の城が存在していました。それだけ争いが多く、小規模の国人衆が存在していました

代表的な城だけ載せていますが、近江には膨大な数の城が存在していました。それだけ争いが多く、小規模の国人衆が多数存在していました/©2015Google,ZENRIN

しかし浅井家では織田家との同盟は美濃方面の安定という側面だけが必要でそれ以上のものは欲していません。
むしろ織田家との婚姻による同盟を快く思っていない家臣が浅井家には多くいました。これには浅井家が戦国大名として独立した経緯と浅井家の国家戦略に理由があります。

時代は遡りますが、浅井家はもともと北近江の守護・京極家の被官であり、近江の一国人でした。しかし主家を凌駕する実力をつけ始めた浅井家が京極家を圧倒し、ついには小谷城を居城として独立。これが浅井長政の祖父、浅井亮政(あざい すけまさ)の時代です。

 

応仁の乱までさかのぼる近江の南北問題

北近江で急速に勢力を増す浅井家に対して危機感を抱いたのは国境を接する南近江の六角家でした。

そもそも北近江と南近江の敵対関係は応仁の乱からスタート。北近江の京極家と南近江の六角家はそえぞれ東軍と西軍に分かれて戦い続けたのです。

応仁の乱の勃発は1467年ですので、亮政の時代から60年以上、長政の時代になると100年以上も前の話で、とにかく長い敵対関係にありました。もはや北近江と南近江は「ケンカの原因はもはやよく知らんけど、とにかく仲がよろしくない」という状態だったのです。

京極家が没落しても六角家の勢力は旺盛で、京都に近いという地理の特性上、近畿地方で台頭してきた三好家と勢力争いを繰り広げる細川管領家に度々援軍を出していました。一時期は幕府の役職「管領代」まで得たほどです。

そんな名門六角家にとって、京極家の勢力に取って代わる新興の浅井家はさっさと潰しておくにこしたことはありません。六角家は朝倉家を誘い、南北から浅井家の取り潰しにかかります。
ちなみに朝倉家もこの時期の有力大名の一つで、六角家同様、京に度々援軍を出していました。

新興の浅井亮政にとっては、単独で六角家と朝倉家という当時の二大巨頭に挑むほどの力はありません。
居城の小谷城は両軍に囲まれ、朝倉家最強の武将、朝倉宗滴には城の目の前に付け城を築かれてしまいました。これが後年の小谷城の出城「金吾丸」です。

ここで浅井亮政の類稀な政治力と外交力が発揮されます。なんと浅井家を仕置に来たはずの朝倉家を説得し、逆に朝倉家を浅井家の後見にしてしまったのです。
両者にどういう話し合いが行われたかは伝わっていません。現代に伝わっていないくらい極秘中の極秘だったことは確かです。名将、朝倉宗滴が納得して受け入れたほどの浅井亮政の提案とは一体何だったのでしょうか。

 

浅井亮政の渾身の寝技が決まり、晴れて戦国大名に!

朝倉家は越前や加賀方面で一向一揆と果てしない戦いを続けていました。若き朝倉宗滴を有名にしたのも1506年の「九頭竜川の戦い」です。越前一乗谷に迫る30万の一向門徒兵を僅か1万の兵力で蹴散らしたと云われていて、さすがに30万は言い過ぎでしょうが、「千畳敷の千畳」の表現と同じく、「とにかく大軍」だったのは確かでしょう。

このように朝倉家は越前、加賀方面の平定に忙しく、徐々に京への派兵も減らしていきます。つまりこの時点で朝倉家の興味は北へ向いているのです。

そんな状況で、背後に巨大な勢力が進出してきたらどうでしょうか。北に向いた越前の背後とは若狭と北近江です。
若狭は小勢力がひたすら内紛を続けていますので大したことはありません。一方、北近江では京極家が衰退し、浅井家がのし上がってきました。

ここで浅井家が潰れればどうなるでしょう?

朝倉家と同勢力の六角家が浅井を潰して北近江へ進出してくることになります。六角家は、朝倉と共に京へ派兵してきた有力大名。しかも佐々木源氏の末裔で家柄も朝倉家を凌ぎ、朝倉家が京から手を引いても相変わらず足利将軍家や細川管領家に援軍を派遣しています。

朝倉家としては、このような野心満々の六角家を背後にして一向宗と戦うことは非常にリスキーです。

勘のいい方は浅井亮政の提案が何であったかもうお分りでしょう。
そうです。どこかで聞いたことある状況ですね。武田信玄にとっての東濃地域、上杉謙信にとっての北信濃、つまり北近江の緩衝地帯化です。

浅井亮政の提案はこうです。

浅井家を潰せば北近江に六角家が進出してくる。そうなれば六角家という巨大な勢力が朝倉家の背後で国境を接することになる。
これは朝倉家にとってよろしくない事態だろう。しかし浅井家をこのまま北近江に残せば六角家と朝倉家の緩衝地帯となることができる。浅井家の当面の敵は六角家なので浅井家が朝倉家に手を出さないことは今ここで約束できる。
というかそもそも二正面作戦ができるほどの力は浅井家にないけどね。あ、ついでに一向宗にも多少、顔が利くのでいつでも相談してね(亮政は南近江の一向宗を焚きつけては六角家を悩ませていました)。

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朝倉氏の本拠地・一乗谷。これを見事に説き伏せた浅井は……

浅井亮政の提案に朝倉家は乗ります。

朝倉家は早速、浅井家と六角家の調停に乗り出し、停戦の合意を締結。以後、朝倉家は織田家と敵対するときまで近江に一切干渉しません。

この手の結びつきには、通常、清須同盟のような不可侵条約がありますが、浅井家と朝倉家の間にはハッキリとした同盟関係がなかったといわれています。同盟と呼ぶには勢力に差がありすぎるのと、明文化すると完全な従属関係になって、浅井家では朝倉家の出城とみなされ緩衝地帯として成り立たなくなってしまいます。
しかし越前と北近江の間には境目の城が構築されなかったことからしても、両者の間に何らかの不可侵条約があったことは確かでしょう。

同盟関係がないのに、なぜ浅井家は朝倉家にこだわったのか? これが今でも答えがはっきりしませんが、上記のような国家戦略が浅井家にあったとすればすべてが腑に落ちるでしょう。

久政、六角家へ臣従して権益を守る驚きの一手を繰り出す

朝倉家と手を結んだ浅井亮政は、以降、六角家にちょっかいを出しては反撃され、小谷城を何度も追われます。
が、またすぐに戻ってくるというトムとジェリーのような抗争を繰り返します。そして同家は、反六角家で独立色の強い近江国人衆の受け皿となり徐々に実力をつけていきます。

そうこうしているうちに亮政は死去してしまうのですが、養子に迎えていた明久と、その後に側室が産んだ久政との間で後継者争いが勃発。
亮政は久政を後継者に指名しておりましたが、久政は戦下手で、これまで様々な修羅場をかいくぐってきた浅井家・家臣団のお眼鏡に叶いません。

しかし浅井久政は大変アタマが回る人物だったのです。戦下手だという弱点を上回る作戦でこのピンチをくぐり抜けるのですが、それがなんと宿敵・六角家に臣従を申し入れ、その援助によってライバルの明久に勝利したのです。

ただ、これにより失うものも小さくありませんでした。浅井家・家臣団の多くは「六角家への臣従」を屈辱と考え、久政から遠ざかってしまうのです。って、そりゃそうですよね。浅井家はもともと反六角家の集団なのですから。
むろん、そんな状況は久政も予想していたことでしょう。不思議なことに浅井家は、六角家に臣従したとはいえ小谷城を中心とした浅井家の支配と権益は奪われることなく守られます。なぜ守られたかは、これも謎なのですが、浅井家の後見として朝倉家から何らかの横槍があったのかもしれません。おそらく六角家の臣下に組み込むことは認めるが「浅井家を温存しなければ朝倉家は北近江に派兵するぞ」くらいの釘は刺していたのかもしれません。

争いが収まったこの時期に久政は領国の内政に尽力し、国力を蓄えることに成功します。

そんな中、六角家の観音寺城下で生まれたのが浅井長政でした。

人質として育ち、元服して「賢政」と名乗りますが、六角家への臣従に我慢がならない反久政派=独立派の浅井家家臣たちに祭り上げられ、名を「長政」に変えてついに決起。父の久政を幽閉し、「野良田の戦い」で優勢な六角義賢軍を野戦で破り、浅井家は再独立を果たします。
この戦いが永禄3年(西暦1560年)。奇しくも桶狭間の戦いと同じ年でした。

この頃の六角義賢率いる六角家は以前の勢いがありません。対抗する三好家の勢力が拡大し、手が追えなくなってきました。
一度は足利義輝の上洛を成功させたりと勢力を盛り返しはしますが、三好家の反撃に苦戦。六角家は三好家に対抗する足利義昭を南近江に匿っていましたが、三好家が管領職就任をチラつかせて六角家を抱き込んでしまい、六角義賢、義治父子はついに義昭を追放してしまいます。
そして子の義治は家臣との関係が悪く「観音寺騒動」を起こしてしまうのです。

かくして再独立で勢い立つ北近江の浅井家と、かつての勢いが衰えた南近江の六角家が勢力均衡した時期に、信長は美濃に進出してきました。

 

果たして久政は朝倉家を重視した暗愚な武将だったのか?

浅井家では長政を筆頭に独立派が実権を握りました。一方で、隠居の身である久政の権力も、実はまだまだ生きていました。隠居しても竹生島を中心とした琵琶湖の利権を握っていたからだといわれています。

いつの時代も財布を握っている人は発言力があるのですね。

久政は、独立してしまった以上は亮政時代のように朝倉家と六角家の緩衝地帯となることで浅井家の存立を確立させようと考えます。

一般的に浅井久政は「暗愚な当主で、朝倉家との関係を重視したばかりに織田家を裏切り、結果的に滅亡を招いた」と言われておりますよね。しかし久政が朝倉家に執着した理由は亮政時代からの構想、大国の緩衝地帯となることで北近江の支配を守り、領国を繁栄させるという国家戦略にあったのです。

戦国時代といえども「信長の野望」のように誰もが天下統一や上洛、他国への侵入を望んでいたのではないのですね。
そう考えると久政の評価を「暗愚」の一言で片付けてしまうのはおかしいのでは……。酒色に溺れて国を滅亡させた美濃のアイツとは格が違うのです。

ともかく、このような国家戦略の中で、織田家と婚姻を結ぶことで神経質にならざるを得なかった浅井家の事情がお分かりいただけるでしょうか。

織田家に協力して南近江の六角家を滅亡に追いやれば南近江は同盟国・織田家のものになります。ここで織田家が足を止めれば南近江の支配者が六角家から織田家に代わるだけですので問題はないでしょう。

しかし織田家は足利義昭を擁して南近江に進出してきました。つまり南近江の支配が目的ではなく、上洛が目的で南近江は通過点でしかないのです。
これでは織田家のその後の動きが読めません。尾張から出てきて美濃、伊勢、南近江と進出してきた勢力が京で歩みを止めるとは到底思えません。上洛した六角家がその後、北近江に触手を伸ばしてきた前例もあるので、浅井家と朝倉家は気が気ではありません。織田家と朝倉家が美濃の北方で国境が接していることも気になるところです。

浅井家がこれまでのように緩衝地帯として生存するためには、朝倉家と織田家の関係ができるだけ平穏であってほしい。これが浅井家が織田家に求めた「朝倉家に絶対に手を出すな」という同盟を維持するための最低条件になりました。

 

浅井「朝倉さんに絶対手を出すなよ、絶対にだぞ!絶対」

この意味をさっぱり理解していなかったのが信長です。

家康や信玄のように「背後は俺たちに任せてさっさと北進して越前狙えや。過去の関係?知らんわ」としか思っていません。

信長は浅井長政の能力を高く評価していたからこそ、妹の市を嫁がせました。浅井家を緩衝地帯に甘んじるような中小の勢力とは考えていなかったのでしょう(認めていたからこそ、結果的に双方へ誤解を産んで対立してしまうとは、悲しいですが)。

一方、浅井家は、六角家の勢力が衰えた時期や織田家の美濃進出のタイミングで、国家戦略を根本的に見直すべきでした。少なくとも浅井家単独で六角家を切り崩す力があったのに、古い国家戦略にこだわってしまったのが痛い。久政に対抗できる対案も他になかったのでしょう。浅井家の台頭が近江のパワーバランスを崩して自らの首を絞めてしまったといってもよいかもしれません。

何より浅井家最大の失敗は、隠居に追いやった久政に発言の自由と権力を残してしまったことです。外部環境が変わったのに古い緩衝地帯構想に固執し、朝倉派と織田派に国論が割れる原因を作ってしまいました。

さらに独立色が強く、基本的に自分の領地内のことしか考えていない家臣団がかなりの決定権を握っており、トップダウンで物事が決められる状況ではなかったことも原因でした。南近江の六角家も同様で、何かと当主に歯向かう国人衆の存在が近江全体のアキレス腱となり、信長のつけ込むスキになります。

以上が近江の状況です。

 

この最中に越前に亡命していた足利義昭が、なかなか動かない朝倉家を見限って織田家にやってきます。

一度は将軍家に見限られた織田信長ですが、今度は本気で上洛を約束します。これで信長の次の戦略が決まりました。というか家臣たちにちょっと休ませてと言わせる暇もないほどに京に向かって電光石火の進撃を開始します。

ちなみに、
こんなに頑張って勝ち取った岐阜城は今後ほとんど出てきません‥。
こんなに頑張って岐阜城の防御性能を高めたのに役立てる機会は今後もありません‥‥。
こんなに頑張って調べたのに、岐阜城に言及することももはやありません‥‥‥。

でもいいんです!(ジョンカビラ風)

本拠地が攻められないこと。それが最強織田軍団の証でもあるのですから。

信長時代の岐阜城は結局一度も攻められることなく信長は安土城へ引っ越していきます。
しかし信長亡き後の岐阜城に織田信孝織田秀信が城主としてやってきますが、敵に木曽川や長良川の防衛ラインをあっさり越えられ、秒速で落城しています。

戦国のモダニズムという城主の美的センス以上に、運用する城主の能力が問われる城、それが岐阜城なのです。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 



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